「繰り返します。われわれに必要なのは「そんなのは知ったことか」と言う勇気です。」

「繰り返します、私に必要なのは、「ハイ!おっしゃるとおりにやります!」と言う「素直さ」なのです。」とは絶対思いたくないですが、

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いま、多くの人は恐怖し、怯え、苦しんでいます。「自分」と「現在」が分からないという、「無知」に怯えている。自分が何者なのか、現在はどうなっているのかを知らなければならない、情報を得なくてはならない、それを知らなければ取り残される――そんな脅迫が遍在している。

ジル・ドゥルーズは「堕落した情報があるのではなく、情報それ自体が堕落だ」と言いました。ドゥルーズだけでなくハイデガーも、「情報」とは「命令」という意味だと言っている。つまり、命令を聞き逃していないかという恐怖にまみれて人は動いているのです。命令に従ってさえいれば、自分が正しいと思い込めるわけですからね。しかし、ここで卒然として「命令など知らない」と言えるはずです。何かを知らなければならない? そんなことは「知ったことではない!」とね。私の現在は私のものだし、私は私のものです。自分も現在もここにあるのです。どこに探しに行く必要があるのですか? 何を知る必要があるのですか? 情報を、つまり命令を聞かなくてはならないだなんて、誰が決めたのですか?

どんな文章を読んでも、いまのそのままの自分を肯定するようにしか読まないことは、『五分後の世界』のときもはっきりしましたが、今回もそうかもしれません。

気の利いたコメントが言えなくてはならないという焦慮に苦しまなくてはならなくなる。そして「専門家」たちは、「ひとつについてすべてを知っている」という幻想に縋る。

こうしたものは、知らない、わからないという苦しみと悲しみと恐れを、そして諦めを生むだけです。ラカンは、「すべてについてすべてを」そして「ひとつについてすべてを」という欲望は、結局は無難で安全で何も変えない「ファルス的享楽」に帰着するにすぎないと言ったではないですか。

「ひとつについてすべてを」語ろうとする、限られたマス目を塗りつぶそうとするような専門家の書き方は、結局どちらも、あえて言えば「全体主義的」な、「ファルス的」な欲望に根ざしているにすぎない。われわれには、このような貧しい二者択一しか許されていないのか? この現在という時代にあっては? 断じて否である。そう言いましょう。

これはおそろしい……。「興味を絞る」……。

中井久夫大江健三郎古井由吉も生きて書いている。何ひとつ不可能になったものなどないのです。まさに「何も終わらない」。彼らのように、貧しい二者択一を拒否する力強く活気に満ちた「別の」書き方ができるはずでしょう。現にそれらはわれわれの目前に存在するのですから。

……。もっとむずかしくなった…… ような…… 気が……(しません)。

記者から「『アンチ・オイディプス』は難解で専門家でも理解できないと言われていますが」と問われて、ドゥルーズは「分からないのは専門家だけです」と平然と答えた。実際に彼は、看護師や港湾労働者が読んでくれて、彼女ら彼らから熱心なファンレターをもらって感激したと言っています。ドゥルーズはそれを「遭遇」と言います。確かに入門書も読まず学歴もなく正規の教育課程も踏まない人々に、あのような二〇世紀屈指の難解さを誇る本が読まれるというのは「遭遇」どころか「奇跡」に近いことでしょう。しかし、それくらいの奇跡はこの世界で簡単に起こるのです。遠く及ばずながら、


『夜戦と永遠』もその点では幸運でした。専門家でも何でもない人たちが楽々と読み切って面白がってくれている。二十歳前後の若い友人たちから早速楽しく読んだと連絡をもらったりね。

……。読め…… ません……。

フーコーラカンがなぜこんなに誤解されているのか。知を金銭のように考えているからです。知を蓄積し、知の元手を作り、利回りを考えて投資し、損失が最小限度になるように「情報のポートフィリオ」をつくってバランスよく知を増やしていく――そして老後は安心というわけです。インフレと恐慌に怯えながらの安心、自分が「所有」している知の価格の暴落に怯えながらの安心ですが。しかし、ラカンフーコーはこうした考えとは全くかけ離れたところでものを書いている。「俺は知識の金持ちだ、その俺を見ろ」。うんざりするほどこれは剰余享楽とファルス的享楽の枠内にあることであり、その程度の享楽にできることは何もないのです。

そうだとありがたいんですけど(ありがたくても、楽なわけではなくて、より厳しい?)、現実(?)はそうではなかった、「ちょきん……だい……じだった……(餓死)」、みたいな話にならないでしょうか……。
私はまだ保険に入っていません……。貯金もしてません……。そういった、単にだらしない習慣(掃除をしない、服を着ない、暴飲暴食が止まらない、金銭管理がずさん、知人・肉親をないがしろにする、挨拶をしない、人と話せない、すぐに怒る、等々)を、私は、上のような高尚な(……。)思想を利用して肯定してしまうので、注意する必要があると思います。私はもっと「新入社員の心得」とか「人を動かす」とかを読んだほうがいいのだと思います。という考えが間違っているのでしょうか。
能力がある、仕事ができる、かわいい、かっこいい、おしゃれ、すごい、楽しい、……、このような、一般的にも(自分が考える一般的にも)、自分としても、逃れられない価値観、どう感じても(考えても)良いとしか思えない価値、について、何らかの「向上」を考えると(向上を考える、というよりは、考えるほうに追い込まれる、追い込まれざるを得ない、追い込まれないわけにはいかない)、どうしても、「金銭的情報」「「ひとつについてすべてを」語ろうとする、限られたマス目を塗りつぶそうとするような専門家の書き方」を求めざるを得ないように思ってしまうのですが、そういう問題ではないのでしょうか? 『夜戦と永遠』を全部読めば(読めません(というか、難しくて理解できません……))わかる(読めば「わかる」……。)のでしょうか……。