怒り、怒りの前段階、について

『怒りというのは内的な状態のことではなくて、表に現れている怒り言動そのものだ』について考えました。僕もその通りだと思いますが、説明が足りないように思います。ピュアに怒りの感情はあると思います。でも、怒りを表に表している時には、既に怒りの感情は収まっていることが多いように思います。例えば怒りに従って殺人をする人についての段階を説明します。

ステップ1 : 言葉にも行動にも出来ない、なんとも表しようのない怒り

ステップ2 : 脳で、怒りを行動に変換する

ステップ3 : 行動に起こす

普通はステップ2と3を怒っている、とします。1は表に表れないし、現れたとしても凄く短い時間に起こる、瞬間的なものです。

まず、主観的には、「ステップ1」は確実に存在します。私はこれを認めるべきです。存在するものを無いことにはできないからです。
「ムカッ(「言葉にも行動にも出来ない、なんとも表しようのない怒り」)」となって言動に表す。これは否定しようのない現実です。これを確定させたうえで、永井さんの怒りの議論(の劣化コピーとしての私の議論)を見ていくことにします。

「怒っているようには全く見えなかった」怒りが、実際に怒りとして確認されるのは、「私はあの時楽しんでいた」という告白ではなく、脳のどこかにある化学物質が確認されたときでもなく、「私はあの時怒っていた」という告白行為が確認されたときであったり、「怒っているようには全く見えなかった」時に行われた行為が、害悪を引き起こすように意志された行為だと確認されたとき、あるいはそれに似た行為が確認されたとき、でしかなく


http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20080831/p1

脳のどこかに、人間なら怒っているとき必ず発生する化学物質が確認されたときでも、その人が怒っていないことは可能ですが、物凄い怒りの形相で顔を真っ赤にし怒りの相手に殴りかかり汚い言葉を投げつけていながら、その人は怒っていない、ということ(たとえば、脳内に怒りの化学物質が発生していないことが測定されたから、本人が怒っていることを否定したから、等々)は不可能です。いや、それでもその人は怒っていないかもしれない、と考えるとき、その「怒り」とは何を意味しているのか、という問題になります。怒っているフリをしているだけではないか、と考えられるかもしれませんが、「怒ってはいないかもしれない。怒っているフリをしているだけかもしれない」と言う場合の「怒っている」はまさに怒りを意味しているわけです。どこまで疑おうと、それはフリであれ、怒りでしかない、わけです。そして、怒りではなく怒ったフリかもしれない、と明確に言うためには、怒っているという証拠以外に、後ろを向いて舌を出していたとか、少し笑っていたとかいった、別の根拠が必要になるということです。別の根拠もなく、ただ怒っているフリをしているだけかもしれない、怒っていない可能性もある、と言うことは、目を閉じているとき、見ていないときには、私が今いるこの部屋は存在しないかもしれない、と疑うことと同種の、空虚な疑い(「存在」という言葉の縮小解釈=「怒り」という言葉の縮小解釈)となります。


http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20080831/p1

人が考えているかどうかの判断基準は、脳の有無や脳内の物理的状態にあるのではなく、その人が考えているように見えるかどうかにある、のではないか、という問題がありましたが、規則に従う従い方の問題も、これと同様の考え方、同様ではまずければ、同じような方向で類推できるのではないか、ということを、今日なんとなく思いました。規則に従う従い方、従っているかどうかの基準を、何か内的な規則把握に求めることは、人が考えているかどうかにおいて脳を基準にするのと同じようなことではないか


http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20081107/p1

怒りが状態であれば、それをただ眺めるだけ、ということができそうですが、そういうわけにはいきません。怒っている人を間近に見たときは、誰でも何らかの反応を強いられます。怒っている本人も、自分の怒りに対して無表情で対応されることを期待してはいないと思われます。こう考えると、怒りは確実に表出、つまり、アピール行動であるように思えます。


ただの状態であっても、眺めるだけではいられない状態というのはあります。自分に向かって大きな木が倒れ掛かってくるときであるとか、近くにいる人の脚が切断されて血液が大量に流れ出しているときなどです。怒りは自分の意志によって煽ったり抑えたりすることができますが、木や血は自分の意志によって倒れさせたり流出を止めたりすることはできません。人の反応を強いるかどうかで、状態か表出かを決めることは間違いかもしれません。


自分に向かって大きな木が倒れてくるときは、避けるなり木を手で支えるなり何らかの対応をしなければなりませんが、これは偶然的な対応です。木が倒れることが空気のゆるやかな動き程度の意味しか持たない状況なら、何の対応もしなくてよいからです。脚が切断された人が近くにいる場合も、脚が切断された人を平然と見過ごすことができる場合も十分想定が可能であるという意味では、木を避ける場合と同じように偶然的な対応です。同じように、怒りにどのような対応をするのかも、偶然的な問題です。ただ、怒りを平然と見過ごすことができる状況を想定した場合、その怒りは、現在の見過ごすことのできない怒りと同じような怒りでしょうか。反応の違いが、怒りの意義を変えてしまうことにはならないでしょうか。怒りと、倒れる木や脚を切断された人は、ここが違うように思います。


http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20081102/p1

さっきまで自然に会話していた人に、実は脳が無いとあとでわかった、としても、会話が自然とできていたことに変わりはないし、その人が考えていたことも確かなことです。(あとで脳がないことがわかったら、その人は実は考えていなかった、となるわけではありません。※)また、確かに脳があり、正しく機能していることが正確な測定で確認されたとしても、その人に話しかけても話をしてくれなかったり、全く考えていないような受け答えをされれば、会話をしていることにはならないし、考えていることにもなりません。つまり、人が考えているかどうかに、脳の有無は関係ありません。


しかし、ある人が「よーしわかった。考えているかどうかに脳の有無は関係ないんだな!」と言い、人の脳を破壊してしまったとすると、脳を破壊された人はおそらく考えることができなくなるでしょう。


http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20081029/p3

自分の身体感覚や意図や願望は、外界の対象に対する知覚と同じように扱うことはできない。外界の対象は主体にそのまま現れるわけではなく、誤認の可能性があるが、身体感覚や意図や願望は、主体にあらわれるがままにあり、誤認の可能性が無い。

りんごは別の人が見たり誰も見ないことが可能だから知覚する主体について語ることには意味がある。しかし、ある人の感じる痛みは、別の人がその痛みを感じたり、誰もその痛みを感じなかったりすることが不可能であり、だからその主体について語ることも意味が無い。痛みにおいては、主体が対象を知覚するという図式が成り立っていない。私は他人の痛みを感じない、ということは、観測される事実ではなく、文法的事実である。(Aさんが痛みを感じるときなぜか同時に私もAさんが痛みを感じている箇所と自分の身体の同箇所に痛みを感じるという現象が観測され続けたとしても、私の感じる痛みは、Aさんの感じる痛み、ではなく、あくまで私が感じる痛みでしかない。人は他人の痛みを感じない、ということは経験的事実ではなく、文法的真理である。)


http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20090221/p2

概要

「脳内の」「怒り」、現れる怒りの前段階としての「怒り」(限定主観的ムカッ)は、「怒り」という言葉の意味から考えると、怒りではありません。しかし、確実に怒りの前段階ですから、それを、プレ怒り、PA(ピーエー)ととりあえず呼ぶことにします。PAは怒りではありませんが、怒りとともに必ず起こる現象、それは脳内の物理的課程を伴うかもしれないし伴わないかもしれない誰にも示されない孤独な怒り感情として個人的に感じられるもの、とします。重ねて書きますが、PAは怒りではありません。怒りの定義から考えて100%怒りではないのですが、怒りを引き起こすもの、であることは確実なように思えます。これが「ステップ1」です。
永井さんは「ステップ1」=PAを「存在しない」(『翔太と猫のインサイトの夏休み』)と(たぶん)書いていますが、私は、ここは、何度読んでもあまり理解できない部分です。永井さんが「ステップ1」=PAを「存在しない」とする理由の解明のために『翔太』を何度も読んでいるようなところがあるくらいです。まずこの問題がひとつ。