日記

土日どこにも出かけず家で飲む。
『ウzィトゲンシzュタインの知88』を少し。
永z井さんの書いた項目がやはり一番面白い(と思ってすみません……)。野z矢さんのは『論z考を読む』も含めて、読んでいるとだんだんショボンとなってきてしまう。関係ないけど中島さんのを読んでいてショボンとなってくる感じに似ている。あまり問題だと思えないところで長文が続くのが耐えられなくなってくる、からか? これは向き不向きではなく、永z井さんは怠惰な素人でも引っかかりのあることを書いてしまう、ということかもしれない。たとえばりんごをゆびさして「これはりんごです」と示す「直示定義」は、他の言葉で置き換える通常の定義とは異なり、言語を超えて何かに向かうという意味で特別である、というのは誤りで、りんごをゆびさしたとき、それはりんごを置いている台や、りんごの赤い色や、これを食べて飢えをしのげ、を意味するのではなく、りんごを意味しているということ、そして、直示定義が行われる以前に、ものを指差して示すということがどういうことかということが明確になっていること、こういった直示定義を成立させる言z語ゲzームが成立していなければならない(という意味で言い換え定義と同じである)、という関口さんの説明は、今まで読んだ説明の中で一番わかりやすかったが、ウを読んでいると、こういうわかりやすさにととても還元できない部分が多くありそこに引っかかることが多いので、肩透かしをくらったように感じる。何よりこの説明では、へぇそうか……、で終わって、すぐインターネットを見たくなってしまう。それに対し

われわれはみな「すっぱい」という言葉の意味を知っているから、「『すっぱい』はすっぱいことを意味する」という言い方ができるような気がする。もちろん、この場合、最初の「すっぱい」は言葉そのものを指しており、次に出てくる「すっぱいこと」は実際のすっぱさそのものを指しているわけである。
実際のすっぱさそのもの? でも、その「実際のすっぱさそのもの」が、ここではもうすでに「実際のすっぱさそのもの」という言葉を使って表現されてしまっているではないか。さてでは、その言葉と実際のすっぱさそのものとの関係を、われわれはいかにして語りうるのであろうか? それは語りえないのだ。ウzィトゲンシzュタインは「語zりえぬことについては沈z黙しなければならない」という名言を残したが、それはこのような構造を指しているのである。


永『マ哲』

「すっぱい」を「りんご」に置き換えて考えると、なんだか不思議な釣られ気分が沸いてくるわけです。中後期と前期の違いがあるとはいえ、知識として固定化できない説明がここにはあるような気がします。説明のされかたに向き不向き個人個人の好みの違いがある、ということでしょうか……。勉強が足りなさ過ぎるので自分の好みにこだわっている場合ではないですが……。

だが、これはきわめて奇妙な文ではないか。
一見したところこの文は、たとえば「見えないものは見てはならない」とか「信じられないことを信じてはいけない」という文と同じように、馬鹿げたことを語っているように思える。見えないものは見えないのだから、それを見てはいけないなどと言われても「心配ご無用、見えませんから」とでも答えるほかはない。


永「語zりえzぬもの」(『ウzィトゲンシzュタインの知88』より)