相貌と類似

『心哲2』最後のほう。
相貌の転換の話の最後で類似について1ページ3節ほど。


見たものを詳しく記述したり素描できなくても、ふたつのものが似ていると思うことはできる。似ていると気づくことはできる。
また、似ていると気づいたり似ていると記述したりすることは、あまり正確(詳細)でない記述でしかない。
見たものを詳しく記述したり素描できたとしても、ふたつのものが似ていると気づくことができない場合もある。


類似は、このようなところが、相貌の転換(アヒルウサギ絵をアヒルとして見たりウサギとして見たりする)と似ている。


ヒルウサギ絵を正確に素描できても、この絵を、アヒルとして見ることができなかったり、ウサギとして見ることができなかったり、アヒルとしてもウサギとしても見ることができるということを認識できなかったり、する場合を考えることができる。
ヒルウサギ絵をアヒルとして見ることができる人が正確な素描ができる人かというと、そうでもない。


ということなのだが、では、類似とはどういうことか? 相貌(の転換)と類似(という現象)は、どこが同じで、どこが異なるのか。
ヒルウサギをアヒルとして見る、ように、ふたつのものを類似として見る、というようなことか?