相貌・感情

ウサギアヒル絵をウサギとして見たりアヒルとして見たりすることに対し、

五四七
われわれが自分の見ているものを解釈しているような事例を見分けることは容易である。解釈している場合、われわれは偽であることが判明するかもしれないような仮説を立てているのである。「私はこの図を……として見ている」という言明は、「私はまばゆい赤色を見ている」という言明と同様に検証されえない(あるいは、それと同じ意味でのみ検証されうる)。それゆえ、ここには、双方の文脈における「見る」という語の使用の類似性が存在する。


ウ『心哲2』

五五〇
「このような窓の配置からすると、建物の正面はあちら側を向いている。」
「窓は、建物の正面があちら側に見えるように、かつては配置されていた。」
最初の文は幾何学の命題に似ている。二番目の文においては、<窓が向いている方向>という概念は、建物の正面の記述に役立っている。それはちょうど、<楽しそうな>、<不機嫌な>、<疑い深い>といった概念を用いて顔の表情を記述したり、あるいは<臆病な>、<ためらいがちの>、<しっかりとした>といった概念によって人の行動を記述したりするようなものである。そして、これらが視覚的に知覚されたものや観察されたものの記述である限り、それはまた視覚印象の記述でもある。それゆえ人は、自分はためらいを見ていると言うことができる。(絵を模写している人に向かって、「その表情はまだ正確とは言えない、まだ十分に悲しげな表情になっていない」と言うことができる。)


ウ『心哲2』

見る

  1. 部屋の中を歩き回る(見ることができる)
  2. 見る(視覚印象)(素描)
  3. 〜として見る・相貌の転換
  4. 解釈する