知っている

五七六
誰かが、「自分の名前を間違えることはない、ということを私はいかにして知るのか」、と自問したとしよう。この疑問に、「私はいつも自分の名前を使ってきたからだ」と答えたとして、さらに「私がそれについて間違えないということを、私はいかにして知るのか」、と問うこともできるだろう。そうなると、「いかにして私は知るか」という表現には、もはや何の意味もないことになる。


五七七
「私は自分の名前を正確に知っている。」
私はその反対を証明しようとする議論を考慮することは、一切拒否するであろう。
そしてこの「私は拒否するであろう」は、一体何を意味するか。それは意図の表明であろうか。


五七八
しかし、私は真相を知ってはいない、と権威ある筋が私に断言することもありうるだろう。そうすれば私は「どうぞ教えてください」と言わざるをえないのではないか。ただしその場合には、私の目から鱗が落ちなければならぬ。


五七九
銘々が自分の名を絶対確実に知っているということが、人名をもってする言語ゲ―ムの軸になっている。



「私の目から鱗が落ちなければならぬ」。
ここは原文が気になります。同じようなドイツ語の言い回しがあるのだろうか。