日記

怒りが起こってからのことよりも、怒りが起こるときのことのほうが重要です。怒りが起こらなければ、怒りにまつわる問題もまた起こらないからです。怒りが起こる時のことを考えたからといって、この先怒りが全く起きなくなる(起こらなくさせる)ことはあまり想像できませんし、そこが怒りの難しさだとは思いますが、怒りにとって、怒りが起こる時のことはとても重要ですから、そのことを考えることは役に立つのではないか、と思います。
以前から書いているように、怒りは、突発的な感情により意志に逆らって起こるもの、というよりは、冷静な判断の元で、どうしても発動させなければならない、という強い意志のもとに起こるもの、であるように思われます。ここで怒らないほうが良いのではないか、こんなことで怒っては良くないのではないか、というさまざまな抑制を乗り越え、もう怒ってもよい、ここではむしろ怒るべきだ、と意志が判断したとき、怒りが起こるように思われます。しかしこれは、怒りの表明という側面であり、表明するかどうかの判断より前に、表明するかどうか迷っている怒りはすでに存在しています。その怒りはどのようにして起こるか、どこからくるか、が問題です。その怒りが起こらなければ、表明するかどうかに迷う必要がないからです。これは上の段落で書いたことと同じでした。
最初の「ムカッ」がいつ起こるか、となると、これは難しいような気がします。表明するかどうか迷う以前の、ムカッという感情の盛り上がり、感情の起伏は、意識できるようなものでしょうか。今怒ったか怒っていないかは、その感情の起伏自体から捉えられるようなものではなく、それを表明するかどうか迷う段階になって初めて怒りとして意識・認識できるようなものなのではないでしょうか。表明するかどうか迷いもしない、それ自体純粋な怒り感情そのもの、は存在するでしょうか。
自分は怒っていないのに、「何怒ってるの?」と言われるときがあります。これにはいつも非常にがっかりさせられます。自分は怒っていて、それを表明するかどうか迷っている状態のときなら、「怒った?」と言われても、「あぁ自分の怒りは外に漏れていたのだな」「私は怒りを抑えることができていなかったのだな」と思うことができますが、全く怒っていないのに、「何怒ってるんだよ……」と言われると、いきなり難しい事態に追い込まれます。こうした怒りの指摘に対して「いや、怒ってないよ」と言うことも、怒り表明行動のうちのひとつですから、安易に言葉で否定しても、自分の怒りを表明していることにしかならないからです。