『こ考』P306まで

  • 独z我論=<私秘性・私z的言語>は、人格間障壁問題(感覚語の意味の人称間の非対称性(私は痛い・彼は痛がっているだけ))とは別の問題
  • 私z的言語=「「私」以外の誰もそれを理解することが原理的に不可能な言語」(『探z究』§243)
    • 直接的で私的な感覚として指示する言語が可能であること
    • この言語によって指示される私的対象が存在すること

この赤さ、いま私が見ているこの色のこの赤さは、私しか見ることができない。私しか見ることができないこの赤さの赤い感じ、を正当化できるか、問題。

  • 批判 1.客観性批判

他人とは共有できないこと、私の見ているこの色の感じを他人は見ることはできないこと、がこの問題の本質なのだから、そもそもそれを赤いとか赤くないとか言うことはできないのではないか。「赤い」という言葉は、ポストの色や血の色のことを、誰が見ようが、言うのである。ポストや血を私なら青いと感じている色として他人は見ているかもしれない、と言うときの、「私なら」や「青い」が言えないことがこの問題の本質である。私がいくらこの色は私だけが感じることのできる赤だと言っても、それを正当化できるのは私の直感と記憶だけであり、それは、新聞に書かれている記事を確かめるために同じ日の新聞を何部も買って確かめるようなものである。
→実はこの批判は的外れ。この問題は客観付けられないことこそが本質。「私の感じているまさにこの赤」には客観性が無いと批判しても、そもそもこれは最初から客観性が無いという話。

私だけが見ることのできるこれを、「赤い」と(または独自の名前を)名づけることは、命名規則に反しているのではないか。隣の家にこどもが生まれたからその子に名前をつけようと一生懸命心の中で名づけ行為を行っても、それは無意味な行為であるように。
→規則と制度(環境)概念。「火星の標識」「右手から左手への現金の贈与」「王制の無い国での戴冠式

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