仮説の確からしさ

ウィトゲンシュタイン『哲学的文法1』(全集3)
P312

 仮説の確からしさの尺度は、その仮説をくつがえすことのほうを有利にするのにどれくらいの証拠が必要か、ということにある。
 過去における同じ型の経験のくりかえしは、この同型性が未来においても持続することを確からしくする、と言われうるのは、ただ右の意味においてのみである。
 ところで私がこの意味において、「明日もまた太陽が昇るだろう、なぜならその反対はあまりにもありそうにないからだ」と言う場合、ここで「確からしい」や「ありそうにない」という言葉で考えられていることは、「私が貨幣を投げて表が出るか裏が出るかの確からしさは等しい」という文においてそれらの言葉で考えられていることと、まったく別のことである。「確からしい」という言葉のこれら二つの意味は、ある関連はもっているけれども、同一ではない。


 人は仮説を、いつもだんだん高くなる値段でしか手放さない。


 帰納というものは、経済原理にのっとった過程である。


 ある特定の仮説をうけいれることによって描写の単純さを求めることは、私の考えでは、確からしさの問題と直接に関連している。


 仮説のある部分を、機械装置のある部分の運動とくらべることができる。その部分の運動は、装置の最終的な運動まで決定してしまうことなしに決められうる。しかし、それにともなって装置のほかの部分が、全体として望まれていた運動を生ずるように、一定の仕方で調整されなければならないわけである。ここで私が念頭においているのは、差動運動のことである。――いま、記述されるべき経験がどんなものであろうと、私の仮説のある特定の部分は保持されなければならないという決定をしたとする。そのことによって私は一つの描写の仕方をきめたのであり、仮説のその部分は公準である。公準というものは、場合によってはその公準固執することがきわめて不都合であるとしても、とにかく考えられうるいかなる経験によっても反証はされえない、という性質のものでなければならない。そしてその都合のよさについて大きいとか小さいとか語られうるのにおうじて、公準の確からしさの大小がある。