法則ができた後のデータ

法則は、過去の観測データから作る。だからといって、法則ができた後に観測されたデータが、完全に未知のデータだというわけではないのではないか。法則ができた後に観測されるデータとは、観測されていないデータではなく、観測されていたデータの、再検討、再解釈、再意識化、なのではないか。
たとえば、自由落下する物体の動きについての法則を作った後、物体を自由落下させると、法則に完全に一致したデータが得られるだろうが、そのデータは、確かに、自由落下する物体の動きについての法則を作った後に初めて観測されたデータだが、そのデータがそのようである、つまり、そのデータが法則の通りであるということは、法則完成前から想像可能であったが、数式による法則として明示されていなかっただけ、ということではないか? でもそれは単なる論点先取的な混乱のような気もする。
もっとわかりやすく考えると、物を遠くまで飛ばすために、いろいろな角度で投げてみて、経験的に、投げ上げる角度を(垂直上向きを90度としたとき)A度(たとえば45度)にすると、最も遠くまで飛ぶと予測をつけた。その後データを得ると、だいたいA度で投げると最も遠くまで飛ぶことがわかった、とする。こういうことはありそうなことだ。この場合、仮説を立てた後に得られるデータは、「「不思議と」法則に一致する」、とは感じない。これから得られるデータは今まで得たデータと同じようなデータのはずで、この、「これから得られるデータは今まで得たデータと同じようなデータのはず」と考えられるからこそ、法則(A度で投げると最も遠くまで飛ぶ)、になる、のではないのか。だから、法則ができた後に得られるデータは、確かに法則ができた後に初めて観測する未知のデータだが、未知は未知でも、今までに観測したデータと同じようなデータが得られるはずだという確証、確「証」、というよりは、確実な予測がある、のであり、それを法則は含んでいるのではないか。予測ではなく、法則後に得られるデータは、既に得られているいろいろなデータの一例でしかないのではないか。
こうした考え方と、法則ができた後のデータは未知のデータなのに、法則の通りのデータが得られるのは不思議で、それが不思議でないとしたら、法則作成後に得られるデータと法則を作ったデータとの共通点があるはずで、その共通点とは何か、という考え方と、どこが違い、どこが一致するのか、あるいは両者の関係はどうなっているのか。