移民はマルチチュードでないし、スピノザが出てくるのは柄谷行人だから

http://d.hatena.ne.jp/solar/20051112

パリ郊外で暴動を起こしたアフリカ系移民たちは、いかなる意味でもマルチチュードではないだろう。日本のフリーターたちも、マルチチュードではありえないだろう。「マルチチュード」という言葉を振りかざす寄る辺なきインテリたち、彼らにとっての「あり得べき自己イメージ」としてのみ、マルチチュードという言葉は存在するのだと思う。
ネグリやハートの用いる意味と同じなのかどうか、そのあたりはよくわからないが、月曜社から出ている『マルチチュードの文法』ISBN:4901477099パオロ・ヴィルノは「マルチチュード」を次のように定義している。「マルチチュード」という概念の対極にあるのは「人民」である。両者の二律背反は、17世紀のヨーロッパにおける近代国家成立にまつわる理論的・政治的対立の中心にあった。「人民」という概念の父がホッブスであるならば、「マルチチュード」の父はスピノザである。ホッブズにとって「マルチチュード」とは「自然状態」に属するものであり、国家以前にあった「多数的なもの」を国家は〈《一者》としての人民〉とすることで、そこに単一の意志を与えたのだ、と。これはわりと明瞭な定義だとは思うが、それだけのことであまり面白くない。
スピノザが出てきたので、ああ、あれか、と思ったのは、1980年代に柄谷行人の影響でスピノザが流行って、そのときに流布した「単独者 singularite」という言葉だ。「近代的個人(市民)」に対する「単独者」の関係が、「人民」に対する「マルチチュード」ということだ。古い亡霊がまたぞろ出てきた、という感じである。「マルチチュード」の流行は、現代思想の最後の悪あがき、という気がする。*1。「単独者」がダメなら「マルチチュード」というのもお手軽な発想だが、ようするにインテリの方々はみんな寂しいのだろう。

柄谷行人的な「単独者」の行き当たる壁については、すでに星野智幸が『毒身温泉』という小説でとことんまで戯画化して書いている

http://d.hatena.ne.jp/solar/20051108/p1