「個人として引き受けていくべき」

町田康「それはやっぱり、個人のモラルの問題です」(「論座」2005年10月)

「単純化する社会」という特集におけるインタビュー。複数の安直なキャラクターを演じることや、絶えず周りの空気に合わせることを個人に要求してくる(ように思われる)社会に、何も考えず迎合することに違和感を示しつつ、結局は個人のモラルの問題なので、他人にそうした違和感を押し付けることは否定。坂口安吾の「日本文化私観」「堕落論」に言及しつつ、次のように語っています。

やっぱり人間の愚かさというのは変わらなくて、それは個人として引き受けていくべきです。何か制度やシステムでその愚かさを、魂を救おうというのは違うと思いますね。

とりあえず、まず「論座」を読んでみます。

  • ttp://www.bund.org/opinion/1111-2.htm

さきほど民主主義の問題について出ましたが、問題なのはシステムをどれだけ整備するのかではないと思います。人々が具体的な問題に対してどう関わっていけるのか。「譲渡しない」というのは、自分たちの社会で生じている問題に対しては自分たちで答えを模索するしかないということです。

スピノザは多数性としての大衆とそれが表象される次元を区別します。本当の意味での主体としての大衆は絶対的に肯定されるのだけども、それが現実の中である具体性を帯びて表象されてきて、それがねじれや歪みを持っておりそれに対する批判を行なう。そのねじれがあるからということで大衆の叛乱を否定するのは間違いであるというのがスピノザの考えです。マルクスの大衆叛乱の捉え方は、スピノザのように多数性としての大衆が真の意味での主人公でありそれが絶対的に肯定されなければならないという考えが基本にあるのではないか。