スピノザ『デカルトの哲学原理』(岩波文庫)isbn:400336158X

P177
付録「形而上学的思想」第三章

ところで人間の意志の自由――我々は第一部定理十五の備考で人間の意志は自由だといった――に関していえば、人間の意志もまた神の協力によって維持されるのである。そして、人間が或る事を意志し、或は行動するのは、人間がそう意志し或は行動するように神が永遠この方決裁したものなのである。しかし、人間の自由を維持したままでそうしたことがいかにして生じ得るかは我々の把握力を超越する。だがそれだからとて、我々の明瞭に知覚する事柄を、我々の知らない事柄のために否定すべきではないであろう。というのは、我々の本性に注意する限り、我々は自分の行動において自由であることや、単に我々が意志するというだけの理由で多くの事柄を決定し得ることを我々は明瞭判然と理解する。一方、神の本性に注意する限り、すでに示したように、いっさいは神に依存すること、神から永遠この方存在するように決裁されたことではなくては何事も存在しないことを我々は明瞭判然と知覚する。しかしどのようにして人間の意志が、神によって、各々の瞬間に、自由であるかのような仕方で創り出されるのか、我々は知らぬ。だが事実、我々の把握力を超越していることでそれでいて神によってなされたのであることを我々が知っているたくさんのことがある。例えば、物質は無限定的に多くの小部分に実在的に分割されることを我々は第二部定理十一で十分明らかに証明したが、それでも我々はどのようにしてこの分割が行われるかは知らないのである。

すべてが必然ということと、意志の自由ということの矛盾が正面から取り上げられています。
ここではそれが解決されています。解決されていないです。
まず、すべては必然である、ということの認識(理解)があった。物事には原因がある。原因(の認識)は結果(の認識)を100%含む。因果関係の連鎖は第一原因に決定されている。というような感じで、すべてが必然、というのはわかる。でもそれなら、人間はこうすべきとか何とか、そういう倫理の入る余地が無いように思えます。でも、どう考えても、今から寝てしまうか頑張って仕事や勉強するか、には意志の自由が関係するように思えてしまう。これから頑張るか寝るかが決定されているとしても、今はまさに選択の余地があるように思えてしまう。だったら、必然ではないのではないか。いや、必然だけど、今現在このときの選択可能な感覚は何? という……。
特徴的なのは、必然は必然だし、意志の自由は意志の自由としてある、ということが、どちらも自信満々で否定されない、どちらか一方で押し切らない、という決着の付け方です。いや、決着はついていない、のかもしれないけど、どっちかで押し通すことをしない、というところがおもしろいです。このあたりは、『エチカ』ではどうなっているのでしょうか。