上野修『スピノザの世界』(講談社現代新書)isbn:4061497839

2回目読了。読み終わってみると結構難しくて理解できないところが多かった。これを読んでしまうとよくわかってしまって『知性改善論』も『エチカ』も読まなくてもいいような気がしてしまうのではないかという意味ではどうか、のようなことを以前思ったけど、全然そんなことはなく、ちゃんと『知性改善論』も『エチカ』も読んでみたい感じです。とりあえず次は『デカルトの哲学原理』を読むことにして、しんどくなったら『エチカ』に行くことにします。読みながらメモできなかったので覚えてる限りでのメモ。後でまた付け足すということで。理解できなかった部分や読み落とし。

  1. すべては必然、ということはすごくよくわかるのだけれど、それなら、自分の完全性とか能動性のために努力する意味がやっぱりわからない。この本でも繰り返し、すべてが必然だからといってなし崩しの現状肯定に陥るわけではない、というような意味のことが書かれているけど、そこをいくら読んでも、そうならないことはやっぱりわからない。
  2. すべては必然=自分を力強く肯定、というのはすごくよくわかるんだけど、私はこれを読んで、苦労とか努力とかますますする気がなくなった。これはそれでいいのか、それでは駄目なのか。
  3. 意志、実践の問題ですが、上の努力と同じで、やっぱりどう考えても、これからどうするかという点では「自由」があるように思えてしまう。今までの自分は、これまでの自分は、こうあるしかなかった、という必然として力強く肯定できる。この必然に理由はない。この必然自体は良い意図や計画の下にあるのではなくて、何故かこの必然であったという無根拠の偶然でしかない。その意味で、無理矢理の自分を救うための苦し紛れの見苦しい肯定ではなく、そうでしかないこととして力強く、かつ、力みのない自然な肯定を理解することができる。これを意識することなしに常にこの感覚とともに普通にいられればいまよりは安定や安心を得られるのかもしれない。しかし、これからどうしようか、自分をどうしていこうか、何をしようか、ということを考え出すと、自己肯定では済まなくなり、ここでどうするか決めた自分、決めたことをできなかった自分、が今のできなかった自分、できなかったから良くない自分、を導いているように思えてしまう。目標とは衝動のことだ、っていうのはその通りだ。それなら、自らの完全性能動性のために頑張る、というのも衝動ではないのか。何のためにの「能動性」か、欲望肯定のため、だから、欲望がうまく肯定できなくてもそれはそれでそういう自分だということか。それは駄目なことじゃなくて、そういうものだということで、これからどうするかは、欲望肯定と安定を求めていけばよいということか。