批判の目的・反撃の目的

何のために批判するのか。
というと、もちろん相手を嫌な気分にさせるためではない。
批判と悪口・暴力は全く異なる種類のもので、同列に扱うことはできないが、似ているところが全くない、と思うにはためらいがある。
 
もしかすると、悪口、誹謗中傷に対する応答でも、暴力を振るわれた時の対応ですら、そうかもしれないが、どんな批判、どんな応答であれ、その目的は、相手を嫌な気持ちにさせるためではないのではないか。
何か批判しなければならないと思った時、いきなり悪口を言われたとき、暴力を振るわれた時、自分で自分の気持ちを誤解してしまうが、その相手の心にダメージを与えようと思っているわけではない。
他人が嫌な気持ちになる、ということが、自分をより良い気持ちにさせてくれることなどない。
 
自分にダメージを与えてくる物の力が相対的に減少すると自分が受けるダメージが減り自分の力が増す、ということはある。
そういう身の守り方しかできない時、そういう対応の仕方が必要な時、もあるかもしれない。
ただし、相手にダメージを与える、という行為は、どんな形であれ、必ず結果を伴う。
その結果は、まずほとんど自分の特になるような結果に帰結しない。
反撃した時点では一時的に自分の力の相対的回復を感じるかもしれない。
しかし、長期的には、相手に与えたダメージが、自分へのポジティブな作用を遠ざけ、ネガティブな作用を近づける、のではないか。
 
それでも、ムカッとなって思わず相手に屈辱や痛みを与えることを目的とした行動を行ってしまうことはある。
というよりほとんどの場合そういう行動へ激しくかきたてられる。
それは、自分にダメージを与えてくる物の力を相対的に減少させる、
自分にダメージを与えてきた物の価値を相対的に減らす、
その結果、自分が受けるダメージが減る、自分が受けたダメージの価値を減る、そして自分の力の回復を感じる
からなのかもしれない。
思わずやってしまうだけであって、それが自分の本心であったり本当の目的とは違う、と考えることもできる。
相手の力の減退自体は、本当にしたいことではない。
また、相手の力の減退という目的を達成した場合、それは一時的には得なように思えるが、長期的、結果的には、損をするように思われる。
 
本当にめざすべきなのは、自分の力の増大、自分の幸福感安心感平穏の増大、長期的に得な状況を作る、ことです。
これは、道徳的にいいからとか、その方がいい人になれるから、とかではなく、いやらしいほどに自分の気持ちよさに対して得になるにはどうすればよいかだけを考えた結果です。
 
批判したくなったとき、正しく反撃したくなったとき、もちろん悪口を言いたくなったり、暴力をふるいたくなったり、人を嘲弄したり屈辱を与えたくなったりしたくなったときは、それが本当に自分にとって得な結果を生むのかをよくよく考えるべきだと思われます。
 
なぜ私はこんなことを思うのか、というと、私は、反撃されたこと、嘲弄されたこと、屈辱を与えられたことについて、忘れることも多いですが、覚えていることはどんな小さなことでも、どんなに昔のことでもはっきり覚えており、日々その屈辱の気持ちを新たにして、復讐の機会をうかがっているからです。