人は幸せなだけでは決して満足しない2

以前、人は幸せであるだけでは決して満足せず、その幸せが称賛されることを望んでしまう、と書きましたが、また同じ状況に遭遇しました。
幸せな人は幸せなのだからそれでいいはずです。まさに幸せなのだからそれ以上望みようもない。
のかというと、やはりそうではなさそうです。
幸せというのは、究極の目的と思いがちになってしまいますが、案外その程度のことなのかもしれません。
それとも、人はそう簡単には満足しないということでしょうか。
人は、幸せであるだけでは足らず、その幸せが意義あるものであること、他人から称賛されるものであること、その幸せが良いものだと確信を持てること、そこまで望みます。
幸せであるのだから少なくともねたまれたりすることは当然だ、なんて決して考えません。
嫉妬する人を馬鹿にしそれに同意を求め賛成を求める、そこまで行かないわけにはいかないようなのです。
怒られた人は怒り返すか萎縮するかして怒った人から離れる。これは当然のことです。
人間精神的物理学とでもいうべき自然現象です。(人間の心は物理学では扱えるようなものではありません。)
そんなことは誰でもわかることなのですが、怒る人はそれすら認められないのです。
怒りの自己正当化意識はそれほど高く、怒る自分こそ称賛され認められるべきだ、となるわけです。
当たり前のことをそのまま認める。これすら相当難しい。感情というのは厄介なものです。
私は普段幸せを感じることはほとんどなく(よくあります)、怒りを感じることが多いです。
だから、自分に幸せを感じるということが自信過多に思えてしまうことがよくあるのですが、一方怒りが多いということは過剰な自己正当化を感じていることが多いわけですから、なかなか難しいものです。
自分の自信を怒りから幸せ感に移行できないものでしょうか。