怒りの肯定について

多くの人に評価されている人、世間的には良い人物だと思われている人、私の周りにいる人が高く評価している人が、実は不正なこと卑怯なことを、意識的にか無意識的にか、行っており、それをするどく告発することで、その人に対する世間の評価を適正なもの、つまり低くして、被害を被ってきた自分や自分と同じ種類の人の鬱憤を晴らす、というストーリーをこれまでたくさん見てきて、それは今もあるし、今後もたくさんありそうで、自分を最も興奮させ元気づけてくれるストーリーのうちのひとつであるように感じてしまうのですが、こういうものがある限り、怒りを肯定する気持ち、否定しきれない気持ちが残ってしまうことは、避けがたいのではないか。
 
怒りがあり、もしくは怒りが含まれているかもしれない感情があり、それを動機のひとつとして行動を開始し、粘り強く努力を継続し、対象である怒り要因を攻撃もしくはそれに働きかけ(そしてたまにはそれを自分の中にも見つけ殊勝にも反省などをして)、その要因を消滅させるかダメージを与えて、勝利もしくは喜びや達成を感じる、という流れが、自分の根幹に深く根ざしている、ような感じがあり(毒舌、ブラックユーモアを好む)、怒ることをやめようとしても、怒りが起こったときの怒り肯定力の凄まじい強さとその持続力定着力に抵抗すること、相対化(「ラベリング」)することが、非常に難しい。
 
あと、まだあまり詳しくは知っていないが、スマナさーラさんは怒りは絶対にいけないとは言うが、怒っていないことがもっとも重要で、怒っていなければ、冷静であれば、どんな残酷なことを行ってもそのあたりは感知しない、というよりするべきだ、という考えになってしまいそうに思える。なぜ残酷なことを行ってしまうかというかというと怒りがあるからなのだけれど、怒りを抑えたと意識できたときもそれはじつは、冷静な理論下ならば残酷な行動を行ってもよい(行うべきだ)という方針が怒りを抑える力となっている可能性がある。つまり、怒りが、怒りとは意識されない冷静な怒りとなって温存されてしまう可能性があり、それは、怒りとはいったいなんであるかが長々と述べられているわりには明確に定められておらず、なんとなく不快に感じる人間の状態、程度の言い方だから、もやもやした感情の状態ではないスマートな行動であれば怒りということにはならない、となってしまうからではないか。
 
日常生活においても、わめいたり激怒したりする人は<どんなに正しくても>正しいとは認められずみっともないと見なされ、というよりそもそもわめいたり激怒したりすることはそのまま悪いことで、冷静にスマートになんでもないことのように行動すれば、どんなに不正なことをしてもあまり注目されないどころか正しい人だと見なされる、ということが多い、ように思われる。
 
冷静に、知的に、なんでもないことのように、立派だと思われる人に痛烈な一撃を浴びせること、こういうことこそ最悪なことだと思う、ことができるかというと、できるかもしれないが、それはそれでどうかという気もする。あと全体的にこれらの話は怒り(発生してはいけない怒り)とは関係のない話のようにも思える。