日記

霊とかまじないとか神とかそういう超自然的なことは、常に、昔は信じられていたかもしれないけど今はまともな人はそんなこと誰も信じていない、というかたちで語られる、ものなのではないでしょうか。
そういう超自然的なことが、場合によってはリアリティを持つ、ということを表現する方法として、本当に物理的な力がある、様々な荒唐無稽な言い伝えが物理的科学的な法則と一致する、ことを描くという方法がある。
それはそれでおもしろい場合もあるけど、それでは単に、「宗教の批判」がはっきり「終わった」現在、えっそうやっちゃうの、ということをしただけで、おもしろい物語として受け取るしかなく、話が終われば、どこかの誰かは信じているかもしれないけど今はまともな人はそんなこと誰も信じていない、という自分の現実に戻る。
そうではなく、いきなり高圧的に注意されたらその指摘が正しくても腹が立ってしまったり、毎日親しげに話しかけられたら騙されているのがわかっていてもお金を出してしまったりするという、そういう不可避的な形で、超自然的なことを自ら信じ込んでいかざるを得なくなっていく過程を説得力を持たせて語らなければならないのではないか。語らなければならない、なんてことはありませんが、寡聞にしてそういうのを見たことがない。
どのような物語でも、マインドコントロールを描いた場面や、人がカルト宗教にのめりこんでいく場面、がイマイチなのは、宗教やマインドコントロールに批判的であることが出発点であるため、そうした場面が戯画的に描かれてしまうからで、批判以前にまず、マインドコントロールされざるを得ない過程を(科学映画的ノンフィクションの説明ではなく)人間身体精神力学的なフィクションとしてリアルに描かれなければならない。この場面では誰でも信じてしまうし、むしろ信じるのが正解である、と思えなければ駄目だろう。
しかしそういうのがない(私が知らないだけ)、のは、そんな純粋な信仰過程に焦点を合わせる意義など世の中にはなく、やはりお金であったり、悪い人が騙そうとしているだけであったり、というのがまず取り上げるべきこの世の真実、ということなのだろうか。