「おいしい」は「1次的」な感覚ではないのだとしたら

先日は、番組でおなじみのシェフを起用したイタズラを放送したが、外見がプリンそっくりの卵豆腐を作り、プリンと偽って食べさせ感想を求めると、決まって「不味い」と答えていた。実は、出汁を利かせた最高級の料理で、卵豆腐と知って食べると、誰もが美味しいと答えるのだが、プリンと信じて食べたときには、生理的に不味く感じているような身体反応を示す。さて、ここで問題。「美味しい/不味い」は1次的な感覚のように思えるが、そうではないのだろうか。
 味覚は、甘い/塩辛い/苦いなどの1次的な要素の組み合わせに基づいて引き起こされた連鎖の全体である。芸術による感動が、作品によってもたらされる複雑な環境の連鎖全体で形作られるのと同じように、「美味しい/不味い」という判断は、味の知覚を契機とする連鎖−−生理学的には中枢神経系の興奮パターンであり、心理学的には種種の観念連合となる−−に依存している。したがって、プリンに見える卵豆腐を食べたときの感覚は、プリンを食べるとどうなるかという予測によって形成される準備電位の影響を受けることになり、予測と反する場合には、最高級の卵豆腐であっても不味いと感じてしまう。

http://www005.upp.so-net.ne.jp/yoshida_n/nikki/2012_1.htm#018

食べ物の味は同じでも、食べる人の思惑(何を食べようとしているか、など)によって、おいしいかまずいかが左右される、のだとしたら、食べる前に与えられる情報が、物の味にとって重要になる。
 
もしくは、甘い、や、あぶらっこい、(のおいしさ)は1次的だが、出汁のうまさ、は1次的ではない、のかもしれない。
 
 

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