怒りの能動性、かゆみの受動性、怒りの受動性

(略)
重要なことは、浮かんでくる想念と一体化して、その立場に立って世界を見てしまわずに、逆に、客観的視点に立って、その想念を一つの出来事として見ることである。感覚の場合なら、「鼻がかゆい」と捉えずに「そこにかゆみがある」と捉える。同僚の誰かの姿が思い浮かび、「あの野郎、〜しやがって」と思ったなら、そう感じているその立場に没入してしまわずに、客観的視点から「誰々の顔が思い浮かんで、あの野郎〜しやがって、という思いが生じた」と見る。客観的視点に立てれば、それをたとえば「嫉妬」と本質洞察することもできる。嫉妬している視点に没入してしまえば「嫉妬している」という本質は決して見えないが、客観視できればその本質を見ることも可能となるからである。(だが、次の段階では、この本質洞察それ自体もまた一つの出来事として見ることができなければならない)
(略)
座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。それは間違いなく心の平安をもたらすだろうが、真の幸福をもたらすかといえば、それはまた別の、もっと大きな問題ではあるが……。
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瞑想のすすめ 永井均
http://www.nikkei.com/article/DGKDZO51577590Z00C13A2BC8000/

「そこにかゆみがある」と考えたからといって、かゆみがなくなるわけではない。
かゆみの一体化から離れて「客観視」する、とはどういうことか? 
怒りはできそう、では恐怖はどうか。恥は。