「正しさ」を決めるものは何か

以前、投資勧誘の電話がかかってきたとき、
うっかり「勧誘は全てお断りすることにしてますから」と言ったら、
営業マンは「女性からの誘いも全て断るんですか?そんなことじゃ、恋愛のチャンスを逃しますよ」
とオイラの論理の穴を付いてきて、一瞬、言葉に詰まった。
 
たしかにその営業マンの指摘は正しく、「全ての勧誘を断る」というオイラのポリシーだと、人生の運用に支障を来すことがある。
 
その後、
オイラ「営業の電話は断ることにしているんです」
営業マン「女性からのお誘いだって同じことでしょう?」
オイラ「そもそも、それは、あなたの心配することじゃないでしょう?」
などと、その営業マンはあの手この手で理屈をこねてきて、その営業マンを撃退するまでに、この不毛な論争が一時間近く続いて、かなり仕事の時間を無駄にしてしまった。
 
その営業マンは、毎日何時間も投資勧誘攻撃を続けており、投資勧誘を断るあらゆる理屈を論破するエキスパートみたいになっているようだった。
その百戦錬磨の投資勧誘マンに対して、電話勧誘を受ける側は、それを断る訓練をろくに積んでいない新兵同様だから、まともに論争してしまうと、うっかり負けそうになったりするわけだ。
 
これって、職場や家庭での議論やネットでの議論にも言えて、単に知識と議論経験が豊かで論争に強い人間が議論に勝つことも多く、正しい方が議論に勝つとは限らない。
つまり、議論で勝つことは議論の強さの証明であって、正しさの証明にはなっていない、なんてことはいくらでもあるのである。
 
なので、そもそも議論なんてしない方がいいことってのはけっこう多い。
たとえばなにかを断るつもりなら、下手に断る理由を言うと、その理由の矛盾を突かれて論破されるリスクがでてくるので、そもそも理由は一切言わずに問答無用で断った方がいい。
つまり、「勧誘は全てお断りすることにしてますから」なんて理屈をこいたオイラが頭悪かったということだ。
同様に、職場でも家庭でもネットでも、議論を重ねてどちらが正しいかを決めようとしても、単に議論の強さの競い合いにしかなっておらず、どっちが勝ってもそれは正しさとは関係なかったりするケースは多く、そもそも議論自体を避けた方がいいことはかなり多いのではないかなと思う。
 
http://ul og.cc/a/fromdu sktildawn/17621
議論で勝つことは議論の強さの証明であって正しさの証明ではなかったりする

 
ここでは、「営業マン」は議論に「勝った」が正しくなく、fromdusktildawnさんは議論に「負けた」が正しい、と判断されている。「営業マン」(の議論(ではないかもしれないがとりあえず議論))は「正しくない」と言える根拠はどこにあるのだろうか。

「どこにあるのだろうか」という疑問が、そんなものはどこにもない、という否定の意味で使われることは多い。私も、ここでは最初、否定の意味で使った。そんなものはどこにもない、のではないか、と感じたからです。

しかし、上の文章を読めばわかるが、根拠はある。正確には、根拠ではないかもしれないが、上の文章を読んで、意味がわからない、真意を捉え損ねたような気がする、とは感じない。はっきり意味がわかるし、同意できる。同意できるわけではないが、何が書かれているか理解できる(と思える)し、それに同意できる可能性は十分ある、同意することはあり得る。

「営業マン」は正しくない。「営業マン」は正しくないものだ。自分の仕事を邪魔する勧誘の電話に正しいものなんてない。これが「投資勧誘の電話」ではなく、隣のビルの人の「そちらの1階が浸水していますよ」という大声だったら、それに応答するほうが正しい。

この「営業マン」は正しくないのだから、この「営業マン」が議論で私に勝つようなことがあれば、それは正しいから勝つのではない、ということになる。

しかし、もしかするとこの「営業マン」の「投資勧誘の電話」は、隣のビルの人が浸水を知らせてきたような重要な意義を持つものなのかもしれない。この「かもしれない」は正当だろうか。なんでもかんでも「わからない」という結論に持ち込もうとしているだけ、ではないだろうか。まあとにかく、この勧誘の電話はもしかすると私にとって重大な意味のあることかもしれないとは全然言えない、ということはないだろうとは思える。

では、重大かどうか、やはり仕事の邪魔をするだけの電話かどうか、それを判定するにはどうすればいいだろうか。

ここで、だから議論は必要なのだ、議論を通してしか正否の判定はあり得ない、議論のないところにあらかじめ設定された正しい雰囲気なんて正しいということから遠い、ということを結論にしたいとは思えない。思えないかどうかという好き嫌いの問題ではなくて、そういう結論は、議論教的、あらかじめ設定された「議論を通した結論以外に正しいものはない」「議論だけが正しい結論を導くわけではないがでは議論以外のなにが正しい結論を導き出すことができるのか、そんなものはない」という正しさにあてはまってしまったようなところがあるように感じられる。

確かに「営業マン」は正しくない。ここでのポイントは、正しくない営業マンが議論に勝ってしまう、というところにある。通常、議論においては、勝ったほうが正しい。正しいから勝つのであり、正しくないから負ける、それがまさに議論である、ということになる。それなのに、正しくないはずの営業マンが議論に勝ってしまった。これはおかしいのではないか、ここを考えなければならない、ということがここで考えるべき重点である。

「営業マン」が正しくないということ、正しくないに決まっている、仕事の邪魔をするだけの存在であること、これは話の設定だろうか。それとも、現在の実情においておおむね正当な認識、ということだろうか。

いやそれを考えるのではポイントをはずしてしまう。重要なのは、正しくないと確認できる人が議論に勝つという状況があり、その不思議な仕組みについて考えることだ。