強い人は悪いことをしない2

「強い人は悪いことをしない」「悪いことをする人は心に弱さを持った人」
「将棋が強い人、将棋を真剣にしたいと思っている人は、相手がトイレに行っている隙にコマを勝手に動かすようなことはしない、強い人が悪いことをしないのはそういうこと」


将棋の例について考えてみます。
将棋には将棋を成り立たせているルールがあり、そのルールにのっとって知恵を絞り、勝敗を決するというのが将棋というゲームです。相手の隙を見て駒を勝手に動かせば確かに勝ったよう見えるかもしれませんが、将棋のルールで勝ったわけではありません。将棋を楽しみたい、将棋で強くなりたい、と考えている人は、絶対そんなことはしないでしょう。むしろそんなことだけは絶対しない、と思っているでしょう。
ここで、絶対しない、と考えられていることは、人に出会っても挨拶をしない、とか、人の悪口を言う、とか、すぐにプンプン怒った態度を見せる、とか、人を殴る、とかいった種類の「悪いこと」ではありません。
自分で、自分はこれで行こう、と決めたルールに、自ら反する、そういったことです。だからむしろ、悪いこと、とか、しないと固く誓うこと、といったものではなく、そんなことをするはずがない、そういうことをしないことにしたからこそこれをやっている、まともな理性がある限り論理的にできないししない、といったものです。(→「「欲望」に「負ける」」「問題)
つまり、もし仮に将棋の駒を勝手に動かすようなことがあるとしたら、自分は将棋をそれほどしたいと思っているわけではなく、将棋なんてどうでもよくてとにかく「勝つ」という体裁が欲しいだけ、ということになります。
将棋に勝つことが自分の給料や生死を決めたり、将棋に勝てれば監獄からの出所を許される、そしてそこにおいて将棋で勝って得られる結果だけが自分にとって重要である、というのであれば、あらゆる手を使い将棋に勝ったという体裁を作ることだけを求めるかもしれません。しかしこれはすでにもう将棋ではありません。
(永井さんが『マンガは哲学する』のなかで、『カイジ』の「限定ジャンケン」を取りあげ高く評価したのも、このあたりを考えるとよくわかります。結果だけが重要であるという状況において、ゲームを行う中でそのルールがダイナミックに生成変化していくという過程を含んだゲームとして「限定ジャンケン」が描かれているからです。)


日常生活、社会生活、人生、は、将棋ほど明確なルールがあるわけではありません。ただ、人生においても、将棋における、勝ったという体裁だけが重要な場合、に似た状況になるときがあり、そうしたときに、勝手に駒を動かす、ようなことをしがちになる(むしろそうすべきだ)ということはわかります。
では、人生においてそうした状況になることがよくある人は、「弱い人」「心に弱さを持った人」でしょうか。強い人ではない、のでしょうか。
そして、人に出会っても挨拶をしない、とか、人の悪口を言う、とか、すぐにプンプン怒った態度を見せる、とか、人を殴る、とかいった種類の「悪いこと」は、勝手に駒を動かす、ということと関係があるでしょうか、ないでしょうか。

そして、人生において、そういうことをしないことにしたからこそ人生をやっている、という状況とは、どういう状況でしょうか。それは自分の「強さ」と関係があるでしょうか。