日記 特別なものとして見る、あああれねとして見る

http://d.hatena.ne.jp/zhqh/20110524/p1
人の場合、良いとか悪いとか優れているとか劣っているとかいったことは二の次で、この人である、ということが重要となる。(この人であるということが重要となるには、歴史が必要とかいろいろありますが)
ただ、この人であるということが重要となると、他との比較や優劣、関係や構造の話ではなくなり、話が広がらなくなる、というようなことを書きました。
人ではなく物事の場合はどうでしょうか。
ある団体や思想や運動を宗教として見ると、ああ宗教ね、ということになり、通り過ぎることになる。「宗教」のなかには、自身を宗教(いわゆる宗教)とは考えていない団体が多いのではないかと思います。同じように、ある人をアイドルとして見ると、あああアイドルね、ということで通り過ぎる人も多いのではないかと思う。アイドルさん自身は、自分をいわゆるアイドルだと考えていない人も多いのではないかと思います。あるいは、アイドルであることに誇りを持っている人のアイドル観は、いわゆるアイドルとは異なったアイドルを考えているのではないか(そうでもないか)と思います。
小説にしろ映画にしろ、特にジャンルが意識されるものの場合、あああれね、と思ってしまうと、通り過ぎやすくなる。いわゆるなにか、ではなく、固有性を見るからこそ、こだわりが生まれる。あるジャンルだからこそのこだわりがある人も多いかと思いますが、それはそのジャンルそのものに、類には解消できない固有性を見ているのではないでしょうか。構造や関係そのものの固有性というか。西部劇だからこそ心踊る人は西部劇を親戚のおじさんのように好きとかそういう事ではないかと思います。親戚のおじさんが好き、な人はなんとなくお金持ちの人のような気がします。ただ固有性にこだわり過ぎると、関係も構造もなくなり、裸の素人が出現する、ような気もします。こだわりが生まれると言っても、そこには素人の勘違いしかないのではないか? 関係や構造の中でこそなのではないか。なのに関係や構造の中では一般性や、あああれね性に解消されてしまうものでしかない、のではないのか。
固有性へのこだわりとは素人の勘違いか、もしくは、固有性へのこだわりやの分析は類への解消でしかないのか。類へ解消するためのこだわりなのか。
あああれねが、通り過ぎを生む場合と、こだわりを生む場合がある。
まとまりませんが日記なので