日記

円周率のすべてを知っている神様を想像します。神様がだめなら悪魔でも人間でもいいです。この神様は円周率のどこかに「770」があるかないかも当然知っています。
「770」がある場合は明確です。「小数点以下第何桁から何桁の3桁に770がある」と言うしかなく、こう言ってしまうと人間にも確かめることが可能になるからです。人間ではとても到達できないおそろしいほど先の桁に「770」があるとしても、ある場合はここにある、と指定できるし、それ以外の言い方はないからです。「あるけどどこかは言えない」ではあると言ったことにはなりません。「いやあるよ。あるけど言えないです。絶対あるけど」では無意味です。なぜか。神様ならそういう事も言うのではないのか。人間にはわからない真実もあるのではないか。


「770」がある、というのは「770が第何桁にある」ということでしかありません。どこにあるのか言わないのなら確かめることができないため、でたらめな数の並びを「ある」と言うのと同じことになります。悪魔は嘘をつくもしれないけど神様は嘘をつかない、だからどこにあるかはわからないけど「770」はある、のではないか、というのは無意味です。それではあると言っている事にはならないからです。私たちに確かめられる方法で、私たちにとって有意義な方法で、あると言われなければ、あると言ったことにはなりません。ニコニコして涙を流している人がいて、感謝の言葉を述べ、感謝の発言の前後で頭を下げ、握手を求めてきて、10分後も2時間後も3年後も親切にしてくれ、読心術の専門家も「あの人は感謝している」と言う、そういう人について、神様だけが「あの人は本当は怒っている」と言っても、この人が怒っていることにはならないのと同じです。神様が言うんだからやっぱり怒ってるんじゃないの、と思いそうになりますが、それならこの人が怒っていることが理解可能になる証拠を提出する義務が神様の側に生じるのです。手に入るどんな証拠も彼が感謝していることを示しているのに神様だけが「人間にはわからないかもしれないが彼は怒っている」と言うだけだとしたら、神様こそが「感謝」や「怒り」という人間の言葉の意味を理解していないと考えざるを得ないのです。どういう場合に人間は人間を怒っているとみなすかは人間の問題なのです。どういう場合に「770」が円周率に含まれているとみなすか、についても同様です。人間にはわからない「770」の存在とはどういう存在でしょうか。どこにあるか言えないけど「770」はある、とはどういう状態でしょうか。神様がこのように言うときは、神様こそが770という数字の並びの意味がわかっていない、と考えるしかないのです。


「小数点以下第何桁から何桁の3桁に770がある」と明示された場合、いくら時間がかかってもあるかないかを確かめることができます。確かめることによって、やっぱりあった、やっぱりなかった、ということを知ることができます。この時はじめて「小数点以下第何桁から何桁の3桁に770がある」と言えます。


では、人間には確かめることができないくらい先の桁にあることが言われた場合はどうでしょうか。「小数点以下第何桁から何桁の3桁に770がある」と言われれば人間に理解可能です。どうなればあるということになるかも確定しています。あとは計算するだけです。計算して確かめるだけ。でも人間が計算するといまの人間の能力では一億年くらいかかってしまう。これはあると言えるでしょうか。ないでしょうか。あるともないとも言えないでしょうか。人間が計算するしないにかかわらずあるかないかのどちらかだ、ということになるでしょうか。