日記

絵の場合だと、自分には良いと思えないけど、絵画に造詣が深い人や偉い人や有名な人や尊敬する人がほめていたら、もしかするとこの絵は良い絵なのかもしれないなぁ、と思うかもしれない。小説の場合も、同じようなことがあると想像できる。でも映画の場合は、あまりそうならないような感じがある。自分がつまらないと思ったら、どんなに偉い人や映画に詳しい人がほめても、映画好きの好きな映画って所詮こんなもんか、と思ってしまうのではないか。と思ったけどそうでもないかもしれない。自分はつまらないと思っても、偉い人がほめたら、あれこれはいい映画なのか?と思うかもしれない。絵でも小説でも、自分がつまらないと感じたら、偉い人がいくらほめても、専門家の好きなやつってこういうのか、と思うこともあるかもしれない。これは分野の違いではなく、作品の違いかもしれない。いまあらためて想像しなおしてみると、専門家がやたらほめるのに、自分は自信を持ってつまらないと言えるものは、そんなにないような気がする。思いつく限りではあまりない。ある種の医療行為とか、ある種のおいのり行為関連なら、専門家が言っていても、疑問を感じることはできるが、その場合は、その人を専門家と呼べるかどうか怪しい。とはいえこういう専門家が存在するとなると、絵や小説や映画(このくくりは何なのか……。)でもこの種の専門家が存在するかもしれない。もしかするとこの種の専門家は、医療行為やおいのり行為特有のもので、絵や小説や映画の専門家には該当しない性質なのかもしれない。該当するのかもしれない。この種の専門家が可能かどうかの分野ごとの違いというのはあるのだろうか。プロレタリアなんとかというのはそういうことなのだろうか。ということは幅広く「カdルdト」の一言ですむ問題なのだろうか。でも、映画に詳しい人がほめる映画をつまらないと思うときの自信は「カdルdト」と関係あるのだろうか。あるという方向もあるだろうし、考えないこともできる。