(「人を物として扱う」ではなく)人の気持ちを物として扱う、ことについて

感情ならびに人間の生活法について記述した大抵の人々は、共通した自然の法則に従う自然物について論じているのではなくて、自然の外にあるものについて論じているように見える。

彼らは、人間が自然の秩序に従うよりもむしろこれを乱し、また人間が自己の行動に対して絶対の能力を有して自分自身以外の何者からも決定されない、と信じているからである。それから彼らは、人間の無能力および無常の原因を、共通の自然力には帰さないで、人間本性の欠陥――どんな欠陥のことか私は知らない――に帰している。だから彼らは、こうした人間本性を泣き・笑い・侮蔑し・あるいは――これが最もしばしば起こることであるが――呪詛する。そして人間精神の無能力をより雄弁にあるいはより先鋭に非難することを心得ている人は神のように思われている。

これらの人々にとっては、私が人間の欠陥や愚行を幾何学的方法で取り扱おうと企てること、また理性に反した空虚な、不条理な、厭うべきものとして彼らの罵る事柄を厳密な推論で証明しようと欲することは、疑いもなく奇異に思えるであろう。しかし私の理由はこうである。自然の中には自然の過誤のせいにされるようないかなる事も起こらない。

このようなわけで憎しみ、怒り、ねたみなどの感情も、それ自体で考察すれば、その他の個物と同様に自然の必然性と力から生ずるのである。したがってそれらの感情は、それが認識されるべき一定の原因を持ち、また他の個物――単にそれを観想することそのことだけで我々に喜びを与えてくれるようなそうした他の事物――の諸特質と等しく我々の認識に値する一定の特質を有しているのである。
そこで私は感情の本性と力、ならびに感情に対する精神の能力を、私がこれまでの部で神および精神について論じたのと同一の方法で論じ、人間の行動と衝動とを線・面および立体を研究する場合と同様にして考察するであろう。

スピノザ『エチカ』第三部 感情の起源および本性について 序言 岩波文庫 PP165-167


これを読むと、なるほどな、と思います。人間の感情なんて幾何学的なもの、なのかもしれません。

多くの者は、自分の持つ話したいという衝動を抑え得ないで話すのに、精神の自由な決意から話すと信じている。(中略)人間が自分を自由だと信じるのは、自分の行動を意識しており、かつ、自分を決定している原因を知らないというただそれだけが原因だと。

http://books.google.co.jp/books?id=R4G35NUoVhsC&pg=PA26&lpg=PP1


上のようなスピノザの考え方には、心を穏やかにして落ち着かせる効果があります。『エチカ』を読んでいるときには特にそう感じます。『エチカ』は何よりも、不安な気持ちに対して効くのです。

それとは異なり、「マルチエージェントシステム」などと呼ばれる種類のものの社会現象(人間集団の現象)へ適用については、非常に不穏なものを感じます。人を操っているような、扇動しているような、危なさを感じます。
こうした感情は、物として扱われたくないという素朴な反発にすぎないのであり、実際人間の集団というものは、それなりに複雑な運動をするとしても、予測・制御可能なものに過ぎないし、予測や制御をすることが有用なら予測や制御すべきだし、既にされている、のかもしれません。感情的に「人間をコマとして扱うな!」のようなことを思っても、多くの人間が関与する状況において危機が迫ったとき、有効な対策を実行するには、こうした考え方を無視できない、のかもしれません。
にもかかわらず、こうした考え方は決して、おもしろいことでも興味深いことでもなく、嫌なことにように思えます。それはなぜか?
スピノザの考えに対する感情とどこが異なるのか。スピノザは評価の定まったえらい人だが、MASはおかね儲けのにおいしかしない、という程度の話なのでしょうか?