高林橋さんは小説についての本で何を目指すか

『いいかしら』『症候群』『追憶』『ニッ林ポンの小説』


『ニッ林ポンの小説』を読んでいて思うのは、たしかにこの本には、私が(私のようなあまり本を読まず新聞も読まず他人と交流することもしないような人間は)他ではあまり見ないようなことが書かれている。あまり見ないようなことというより、そもそもいったい何が書かれているかはっきりとしない。何のために書かれているのかもはっきりしない。何を求めているか、どうなればよいのか、よくわからない。なんの目的もなくそれ自体が面白いから求めている、という行動を取ることが、普段は多いのですが、この本は、そのように、おもしろく読まれるために書かれているようにも読めない。
『いいかしら』は、小説を判定する、いい小説、おもしろい小説とは何かを考える、おもしろい小説のおもしろさを指摘する、ということが書かれていることはわかります。それでも、いったい何がおもしろいのか、どうすればおもしろくなるのか、については、頭の悪い私(謙遜ではない本当に)にははっきりとはしませんでした。はっきりとしないことが良くないのではなく、はっきりしないということもまた重要なことではあるように思えました。
『症候群』ではしだいにわからなさが増してきました。小説のことから、より広いくくり、「暴力」や「コミュニケーション」や「コミュニケーションはとても重要なものだがとても難しい」ことについて書かれているようだ、ということはわかるものの、それがどういったコミュニケーションなのか、暴力をなくしたいのか、コミュニケーションを増やしたいのか、それはなぜか、そうすると世の中(?日本?)はどうなるのか、などについては全くわからず、茫漠とした目標ともなんともつかないものに向かって進んだり戻ったり忘れたり思い出さなかったり、そういう感じでした。
『追憶』が扶桑社から出ておもしろく読み新しく出た小説は読まずそのままになっていました。『ニッ林ポンの小説』が出てから2年以上経ってから読み始めたのは、ウに行き詰った(そんなことをしていては何もできない)からですが、『症候群』のような感じは変わっていないと思いました。『症候群』の暴力とコミュニケーションについて書かれた最後の章の続きが、そのまま『ニッ林ポンの小説』になったように思いました。ただ、小説に関するほとんどの固有名詞がすべて「ニッ林ポンの小説家」「ニッ林ポンの小説」と置き換えられており、引用箇所がほめられる為に引用されているのか批判されるために引用されているのかを判定するのも難しくなっていました。テーマは暴力ではなく、「死者」になったようでした。「コミュニケーション」がテーマなのは変わっていないようでした。しかしまだ、どのような「コミュニケーション」が目指されているのか、それはいまあると言われている「コミュニケーション」とどう異なるのか、そのような「コミュニケーション」を目指すとどうなるのか、いまよりも良い状態になるのか、というようなことは、はっきりとはわかりません。どうなるのか、とか、良い状態になるのか、ということは、考慮されていないようにも読めます。そしてそれは悪いことではない、ようにも思えます。
大事なことが書かれているような気になるので、読んでよかったと思いますし、最後まで読むとは思いますが、読んでいると、「私は読むべき本、大事な本を読んでいる」と、私は、雰囲気的に思ってしまいそうな気になるので、そこは注意すべきだと思いました。
『ニッ林ポンの小説』は、『ニッ林ポンの小説』に書かれている内容や高林橋さんの小説や『ニッ林ポンの小説』にに重要な小説だと引用されている小説にくらべて、読み安すぎる(読めていないだけかもしれませんが)、真面目すぎる、雰囲気が良すぎる、ことが少し不思議な気がしました。もっと『ペン林ギン村』のようにしてもいいのではないか(『ペン林ギン村』も相当真面目でしたが……)、と思います。そうでないと、何か誤解をしてしまいそうです。寝転びながら本を読んでいるのに、おいしそうなものを食べている人が前を通ったら本からすぐ目を離すくせに、自分は今何か重要なものを真面目な気持ちで切ない気持ちで読んでいる、と思うことほど、やってはいけないことはない、のではないか、と思えます。ふざけていればいいというものでもないので、じゃあどうすればいいのかというとわかりませんが……。こういうとき、『12枚のア林ルバム』に書かれているミュージシャンのことは中原さん以外100%しりませんでしたが、『12枚のア林ルバム』や中原さんの小説や音楽のことを思い出し、いつも聞いているBuono!のアルバムのことを思い出し、いろいろ考え込んでしまいます。考え込むという名の「ハロプロ@2ch」鑑賞ですが。