日記

いかにおもしろいか、いかにすごいか、ということじゃないのではないでしょうか。いかにあんまりおもしろくないか、いかにそれほどすごくないか、なのではないか。天久さんは、おもしろいものなんてない、おもしろがり方があるだけだ、と言ったそうですが、これを見たとき、極端だなぁ、おもしろいものもあるよ!と思ったんですけど、今になってみると、それほどおもしろいものなんてなかったです。燃えられればいいけど、燃えない。激しくほとばしればいいけど、ほとばしらない。それで悩みます。ジャッ区・ロジェがそれほどおもしろくない、私は感性が鈍いのだろうか、頭が悪いのだろうか、映画を見ることができないのだろうか、と思って悩むわけです。でも、そうじゃないんじゃないかなといいますか、それほど、おもしろい!というものなんてない、それほどおもしろいものなんてないというところから出発せざるを得ない、むしろ、見て、おもしろい!と思って、「おもしろい!」と言う、これはそれほどいいことではないのではないか、という考え方について、永井さんの本にはこうあります。

狐は葡萄に手が届かなかったわけですが、このとき狐がどんなに葡萄を恨んだとしても、ニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然のことなのですが、重要なことは「あれは酸っぱい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。狐の中に「甘いものを食べない生き方こそがよい生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、狐ははじめて、ニーチェが問題にする意味での、ルサンチマンに陥ったといえます

しかしこうした現象自体は特に目くじらを立てることではなく、それどころかこれはいまや自明の前提であり問題なのは……と続くのですが、それはいまは考えません。以上をふまえて以下の日記を書きます。
おもしろい!、と感じる自分、あんまりおもしろくないと思う自分、おもしろい!という他人の評価、おもしろくないという他人の評価、それを支えるものはなんでしょうか。その評価自身だ、と以前もいまも思いますが、その評価自身でない部分を重視してはいけないという思想を信奉するあまり、その評価自身でない部分の強力さをいかに克服するかを、全く考えてこなかったためか、結局は、その評価自身でない部分の強力さに負けてしまっているのが、いまの私の現状だと思います。
私は情けないことに、現在、評価自身でない部分に全く勝つことができません。だから、「おもしろい」という評価を見て、どうおもしろいのか、なにもわからない、おもしろいと思う人がたくさんいて、おもしろいと思うことができない自分がいる、私には映画を見る能力がないから見ないほうがいいのだろうか、とは全然思いませんが、強い無力と不安を感じます。

かつて、ぎりぎりの事情の下で、手向かいできないほど強い悪いやつを「可哀そう」と思い、同情し愛することによって勝利をおさめるという高度な技法が発明された。いまではその出来上がった技法を利用して、本当は自分のほうが強大で、それゆえすでに勝利をおさめているにもかかわらず、さらにそのうえ可哀そうに思い、同情し愛することによって、もう一度勝ってしまう、ということができるようになった
(略)
「かつては病気にすぎなかったことが、今日では恥知らずなことになる」