論理は語れるのか、語れないのか

論理ではありませんが写像の場合です。(論理と写像はぜんぜん違う!のなら困るのでそのことも考えなければなりませんが。)
「「りんご」はりんごを意味する」という文章は、この文章で言おうとしていることが言えていない。なぜなら、この文章の括弧に入っていないほうの「りんご」は、この文章が言おうとしていることが前提となることによってはじめて可能となる表現であり、括弧に入っているほうの「りんご」と同じことを繰り返しているだけだからです。
しかし、「「りんご」はりんごを意味する」という文章がこの文章で言おうとしていることが言えていないからといって、意味不明のよくわからない文章ではないし、この文章が言おうとしていることを誤解して理解しているわけではないと感じます。つまり、語れていないだけであって、言おうとしていることを示せてはいます。
理解できると思っているのが間違っているのかもしれませんが、いまのところ、そうは思えません。写像形式は、確かに語ることができませんが、示すことができます。示すという形で語ることができる、というわけです。何よりも『論考』そのものが、写像形式や論理について、多くのことを語っているわけです。確かに『論考』は、昇りきった後は捨てられるべきはしご、に過ぎないのかもしれませんが。。
「「りんご」はりんごを意味する」という文章は、この文章で言おうとしていることが言えていませんが、言いたいことを示せてはいます。言えていないのになぜ示せるのでしょうか? 示せている、とは、どういうことでしょうか。このあたりは、規則に従うとはどういうことか、と同型の問題なのかもしれません。事実したがっている、同じところに着地する、という事実がある、というところからさかのぼって、規則があるとみなせるようになる(ともいえない根本的な一致が、事実ある、)、ということと同じように、事実写像が成り立っている、論理がある、というように。
写像形式や論理について語れるかどうか、「「りんご」はりんごを意味する」という文章の理解をどう考えるか、という問題は、「この文章は13文字ではない」や「クレタ島人は嘘つきだとクレタ島人が言った」という自己言及の問題と似たようなものも感じます。タイプ理論などのかかわりについてもやっとまじめに考えるきっかけができたような気がします。そんなことも理解せずに論考を「読んだ」とか言っていたのかという話かもしれませんが……。

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「「りんご」という言葉はりんごの像であり、りんごを意味している」と言ったとき、括弧に入っているほうの「「りんご」」は「りんご」という言葉を意味し、括弧に入っていないほうの「りんご」は、りんごそのものを意味している。


という文において、「りんごそのもの」とは言葉ではなくりんごそのものを意味しているが、りんごそのものという表現も言葉なのであり、この文章は、この文章で言おうとすることが言えていない。


言えていない? いや、言えているのではないだろうか。言えていないかもしれないが、伝わっているのは確かなのではないか。言えていないかもしれないが、この文章が言おうとしていることは、理解できてしまっているのではないだろうか。これはどういうことだろうか? 文章がその内容を言えているかどうか、ということと、その文章が内容を伝えることができるかどうか、ということは別ということだろうか。内容が伝わっている以上、言えているということになるのだろうか。