問いの意義

「読書百遍義白ら見る」という言葉が正しいかどうかを短大生活学科の新入生28名対象にデカルトの『方法序説』を30回読むことによって確かめた。
(中略)
本学科に入学してくる学生のほとんどは一生読まないであろう本であることも重要である。
(中略)
そのkさんにしても「読んでも、頭に入らない疲れる。」「声を出すのを途中でやめていた。」「ねむたくて声を出すのがしんどい」「少しでも違うことを考えるとだめだ。」等述べている。こんな状態で努力を続けていくのは難しい。理解に関しては15回目くらいまでは「全くわからない。」「長くてしんどい。内容はさっぱり。」「何回読んでもわけがわかりません。」等のコメントが並ぶ。しかし15回を過ぎたあたりから「なんとなくわかりかけたような気がする。」「少しずつわかるようになってきたかもしれない。」「きのうは少し理解できたと思っていても、今日読んでみるとなんかわからないところがあった。」「これだけ回数を読んでくると読むときはおちつきがでてくるというか読みやすくなってきた」等の言葉が続く。25回目ごろには「内容もわかってきたし、スラスラ読めるようになってきたしうれしい!!!」「回数を重ねると理解できるものなのか…」等の言葉がでてくる。しかし一方「さっきまでわかってたっもりだったけどまたなんとなくわからない。」という当然と思えるコメントも見られる。最後は「これが第一部最後だ。はじめはわけわからんかったけど今となると“ふんふん”でかんじだ。」。4部は比較的難しい文章だが28回目では「じっくり読んでみた。わかっているようだ。」と述べている。しかし29回目では「すばやく読んでみた。すばやく読むとやはり内容が…」と述べている。


田中裕『「読書百遍義自ら見る」は正しいか』
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006408205/

今回は『ウィトゲンシュタイン入門』をわりとすんなり読み終えました。出るのを楽しみに待ち出るとすぐに買って読み始めたのが1995年。14年かかってやっと何とか理解でき始めたようです。それにしても時間がかかりすぎる。
何が書かれているか理解できない、書かれている内容が理解できない、ということもありますが、2,3回前に読んだときからは、それ以上に、部分部分は理解できても、この箇所でこれが問題になっている理由、この問題がここで論じられている理由(ここに置かれている理由)がわからない、ことを強く感じるようになって来ました。

方法序説』なら、確実な知識とは何か、とか、真理を知るにはどうすればよいか、どのように考えていけばよいか、といった問題について考えられている、ということがよくわかる(ですよね……?)ので、あとは、その問題に対応するやり方、その方法、が、理解できるかできないか、という問題になりますが、ウィトゲンシュタイン(『ウィトゲンシュタイン入門』)の場合は、ここではこれが問題になっているのかもしれないが、それが何故問題となるのか、前節や後節との関係はどうなっているのか、全体の中でこの問題はどのような脈絡の中に位置づけられているのか、がわからなくなることが多いのです。
解答が決まっていない、とか、正解など無いかもしれない、それが正解だと判定する最終的な場所や根拠が存在しない、のではなく(だけではなく)、問いの意味がわからない、ここでこれを考えなければならない理由がわからない、ここでこれが問題となることが実感できない、のです。
たとえば、ここでお金を得る方法・節約の仕方についてしつこく考えるのはなぜか、ということは、会場に入るだけで5万円するコンサートをどうしても見たい、という理由があることがわかれば、すぐに理解できますが、そういう理由が発見できず、前節や後節で人生における仕事の意義が書かれているようにしか読めないときは、仕事の意義と節約にはいったいどういう関係が……、全く無関係ではないような雰囲気は感じるけど……などといった状況になり途方に暮れてしまう、というわけです。
ところが今回はそんなところもほとんどなく、わりとすんなり最後まで読めました。(ただし、以前は直感的に肌で問題意識とその解答が理解できたと感じられた箇所が、今回は字面のうえでしか理解できなかった、といったことはありました。)この勢いのまままだ読み中の『探究』(黒崎訳)に戻りたいのですが、『探究』については全集訳のほうが読みやすいような気がします。まあ一度全部読んだからかもしれませんが、全集訳読んでいるときはこんなに苦労しなかったような記憶がある……。
とりあえず次は『こう考えた』を入門と同じように一気に読んでみようと思います。