反論は成り立たない、というよりは、反論とは別の議論の提出

純文学は純文学を書くような奴が書いてるので純文学を書くような奴が抱くような悩みしか書かれていない。


http://twitter.com/eigokun/status/967307815

私は小説(純文学)には詳しくないので間違っているかもしれません。だから純文学について何も書きません。
そのような私が少ない知識と理解で書きますと、純文学にはそもそも悩みが書かれていないので、純文学には純文学を書かないような人が持つ悩みは書かれていないし、純文学を書くような人の悩みも書かれていない、と思います。もしくは、純文学はそもそも悩みが書かれるために存在しているわけではないので、どんな悩みが書かれようが、悩みが書かれていればそれは偶然だし、悩みが書かれているかどうかはあまり重要なことではないのではないか、と思います。悩みが書かれているかどうかが偶然ではないとしても、それは、象(もしくは、虎、耳栓、消費税、アンパンマン、戦後の小麦粉の価格の推移、『大番』を見逃したこと、対象a、等々)が書かれているかどうかと同じ程度の重要性しかないから、「小説は耳栓をするようなやつしか書かないので耳栓をして寝るやつの熟睡しか書かれていない。」という考えと同程度の意義しかないのではないか。もしくは、純文学は耳栓をするような人しか書かないからこそ、いかに耳栓をしない人について理解すべきか(耳栓をしない人について理解できないことを理解すべきか)について悪戦苦闘する過程を記録したものであるから、その困難な挑戦(……。)について、「所詮耳栓を使うやつが書くことしか書かれていない」と考えることにどんな意義があるのか、と思います。または、明らかに悩みが書かれるために存在しているような純文学(……。というより小説)もあるかもしれないし、純文学とは実は悩みが書かれるためのものだった、のかもしれません。登場人物の悩みが克明に書かれてこそ純文学でありそのような純文学を読んで自分の悩みに重ね合わせたり自分の悩みの解決や解消の参考にしたりすることこそ純文学とのまっとうな関係の取り方だ、ということなのかもしれません。しかしこうしたことこそが、純文学からは最も遠いことのように思えます。つまりそのようなものは純文学ではないし、そのようなものが純文学としたらそれは純文学のごく一部であり、特にそれだけを取り上げて純文学を代表させる意義は薄いのではないか、と思います。「純文学は純文学を書くような奴が書いてるので純文学を書くような奴が抱くような悩みしか書かれていない」と書けてしまうような、こう書いて済ませられるような悩みではない悩み(あまりにも卑小すぎて凄い、という悩みとか……)が書かれてこそ、言及するに値する純文学、なのではないか、と思います。
問題はこの次です。

純文学は純文学を書くような奴が書いてるので純文学を書くような奴が抱くような悩みしか書かれていない。

なるほど、その通りだな、と思います。
耳栓や象がどうであるとか、そういうことじゃないんだ。「純文学は純文学を書くような奴が書いてるので純文学を書くような奴が抱くような悩みしか書かれていない。」ということなんだ、と思います。
この肯定、これは、どのような感じ(水準、位置)で行われているのか。