日記

『ゴットハルト鉄道』著者年譜を見てそのあまりのスター性に対して恐ろしい気持ちになりました。本来(……。)小説はこういう人が書いたり読んだりすべきなんだ、と思いそうになりましたが、「こういう人」というのは、肩書き大好きな自分のつまらなさを示すだけかもしれないが(年譜に書かれているのは肩書きだけではないが)、私が、小説を読んだり映画を見たりその感想をインターネットに書いたりすることが、まさに、「かっこわるい」とされる「努力」(この日記で最も多いリンク元検索語は、「努力 かっこ悪い」と「gmail つながらない」です)の典型的な一例ではないだろうか、という結論に追い込まれます。
『ゴットハルト鉄道』は、いまのところ、「だ・である」体で進んでいく文章のポイントとなる末尾にそっと差し挟まれる「ですます」体の取り澄ました感じが微笑を誘う、といったところです。久しぶりに「小説」を読んでいるなぁ!と思えました。こういう楽しみを切り捨てる事はとても残念なことだけれど、自分の能力を考えると、それも仕方ないのかもと思います(選択された「悲しい」や「雪」という単語の心地よさに、自分の、枯葉舞い散る秋の夕暮れをしみじみありがたがる化石的文学趣味の片鱗を感じ恐ろしい気持ちにもなります。こんな受容でしかこの小説を読むことができなくて申し訳ない気持ちでいっぱいです。申し訳なくても私は枯葉舞い散る秋の夕暮れをしみじみありがたがる趣味から逃れられません。)。「楽しみ」と書きましたが、これが「楽しい」と判断できる(言える)ことを後押しするのは、私の場合、「講談社文芸文庫」(本当に恥ずかしいと思います)であったり「ドイツ」で受賞であったりする小説の著者の「作品」(……)を自分が面白いと思えているという権威大好き主義におそらく80%ほど依存しているので、全く信用できません。