サプライズパーティーのサプライズ性

ただ、一つ、僕の要約で言うと、「2.真のサプライズとは文脈から完全に切断されてしまう事態である」が厳密に過ぎる気がします。

確かに厳密過ぎます。では何故厳密過ぎるようなことになってしまったのでしょうか。
私(たち)は、パーティーをあまり目にしません。いや、正確に言うと、肉眼で確認したのは、いや、肉眼というよりは、写真やモニタを通して見たり、全く知らない人たちがどこかのお店でやっているのを見たりしたとき以外、つまり、私や私の知人や私に直接的な関係にある人たちがパーティーをしているところを、私は、過去20年以上にわたって、見たことがありません。私にとって、パーティーとは、その存在こそが、サプライズであり、アメージングな(アメイジングな、驚くべき)ことなのです。


そのような私(たち)にとって、いわゆる「サプライズパーティー」は、まったくサプライズではありません。「パーティー」は普通にある状況、「パーティー」を発生させるようなパーティー臨界を越えた祝われ度を持つ事態の発生が日常的である状況、日常的ではなくても最低ひと月に一度はある、そんな状況においてなら、どんな形式で行われようが、そのパーティーがサプライズであるはずがありません。


というような上の意見は、感情的で一方的な意見であり、誰もそんな意味で「サプライズパーティー」という言葉を使っていないのだから、一方的というよりはむしろ、的外れだと言えるでしょう。
パーティーには、普通のパーティーやサプライズパーティーなど様々な種類のパーティーがあります。時と場合に応じて様々なパーティーを行ったり、様々なパーティーが起こってしまったりするわけです。そこにパーティーの奥深さなり工夫なりやりがいなり人間模様(……。)が見て取れるわけです。そのようなパーティーの詳細な記述においてこそパーティーの本質や、パーティーに留まらず最も基礎的な価値判断の基準として、何を最も重要なこととするか、その点においてどうなることが最も良いことだと言えるのか、が言えるようになるのではないでしょうか。
サプライズパーティー不可能派は、このように、熟考に値すべき様々なパーティー間の差異をすべて無視し、パーティーがあるかないか、それだけで物事を判断しようとしているわけで、これは乱暴な意見だと言えるのではないでしょうか。
もちろんサプライズパーティー不可能派は、このような見方を乱暴であるとは判断せず、パーティーをサプライズだとかサプライズじゃないとか、誰がどこで行うとか、何をどのような順番で行うとか、どんな料理が出るとか、そのようなことをまさに文脈内の些事とみなすことこそがその狙いなのですから、乱暴だと言われても、「そうですね……」と思うぐらいかもしれません。これもまた、「本当には反対も賛成もできない」ということの一例だということに、強引に結び付けました。


あまり関係のない話ですが、最近ちょっといろいろあり(全然何もありません)、少し期待して中島義道『孤独について』(……。)を読んだのですが、序章や少年時代の話は「希望」の否定が前提となっていて良かったのに、そこから先を読みすすめていくと、著者の孤独は、妻や息子などの自分の家族が存在することが前提の「孤独」だったので、ひっくりかえりました。そこにどんな理由があるとしても「それは孤独なのか……?」と思わざるを得ない……。少なくとも普通の意味での孤独ではない、のではないか……。