日記

24時半帰宅。まだバスツアーは絶望的。今日は会社に泊まりたかったのですが家で機械の契約があるので帰らなければならなかった。
横アリでは2年続いたウ全集読みができなかった。なぜなら引越し真っ最中で本がダンボールの中に入ったままだったので取り出せなかったからです。家帰って寝る、起きたらすぐ出かける、の繰り返しなので、まだねんきん特別便の返事も出せてません。代わりに横アリで読んでいたのはもう読み終わった『ウ入門』です。既に数回眺めている本をまた最後まで眺めてその難しさにあきらめ気味になっているところでまたさらに眺め始めるのは苦痛にすらなりそうでしたが眺め始めてみると意外と面白かったというか、全然気付いていなかった重要ポイントを読むことができたので読んで正解だった。いつも「読む」とは書けずに「眺める」と書いているのですが、それは全く謙遜ではありませんでした。理解してみればなぜこんなところが理解できなかったのか不思議なくらい単純で字義通りのことが書かれているだけなのに、いままで全く違った風に受け取っていたり目に入ってすらいなかったことがわかりました。まさに眺めていただけだったのです。ここでいつもならその新たに理解できた重要部分を抜書きするのですがもう遅いし明日は早いので寝ます。

文法における語の位置がその語の意味である、と私は説明したい。
しかし、語の意味とは意味の説明が説明するところのものである、とも言える。
(中略)
意味の説明は語の使用を説明する。言語における語の使用こそがその語の意味である。
文法は言語における語の使用を記述する。
(引用者中略)


(『文法』二三節)

だから実は、文法における語の位置がその語の意味ではないのだ。


永『ウ入門』P132

以前なら、ここで「(自分で言っておいて)なんでやねん」と思っていましたが、今回は引用文を読んでいるときから、ここはまた例のあれだな、と思っていたところ、そう書かれていたので、やっぱりな、と思いました。これは理解が進んできたということなのか。理解してから見てみると当たり前のそのままのことしか書かれていないので、理解していなかったときはいったい何を読んでいたのだと暗い気分になります。
あと理解が進んだ重要部分は内観の対象知覚的解釈に対する批判(P140)=内観(痛み、怒り、)は知覚ではなく主体と分離できず一致している(文字盤に貼り付いた時計の針の比喩)=独o我論批判。