怒っているかどうかを決める3つの場合(条件)

まだ分類の宿題が残っていますが。

  他人に見られているかどうか 表に表れるかどうか 意識 他人が見て 自分が感じて
1 誰にも見られていない

表に表れず

心の中だけ


無理せず

抑えることができた




怒っていない
2 怒っている
3 努力して抑えた 怒っている
4

表情や行動として

表れている


意図せず

表れてしまった

怒っている
5 多少意図して表した 怒っている
6 他人に見られている

表に表れず

心の中だけ


無理せず

抑えることができた

怒っていない 怒っていない
7 怒っている 怒っている
8 努力して抑えた 怒っていない 怒っている
9

表情や行動として

表れている


意図せず

表れてしまった

怒っている 怒っていない
10 怒っている
11 多少意図して表した 怒っている 怒っている

  • 他人が見て怒っていると判断した。
  • 自分で自分を怒っていると感じた。
  • 怒るにふさわしい状況だった。


努力の必要なく抑えることのできた怒り(1.2.6.7.)はそもそも怒りではないのではないか、とも思えます。自分にも他人にも怒りの表出(身体的表出)が見られないのにそれを(抑えることのできた)怒りだと判断する理由があるとすれば、何でしょうか。

  • A.ムカッと一瞬感じたが、すぐ消えた。
  • B.どう考えても怒る状況だったが、怒りの表出には至らなかった。

Aの場合は、確かに怒りを感じはしたものの、怒りが定着・対象化し、それに対する対応を考える状況になる前に消えた、といった場合、もしくは、怒りは対象化されたが短い期間ですぐに通り過ぎて行った、というような場合、になるでしょうか。この場合は確かに怒りを感じています。
Bの場合は、状況がどうであれ、「怒った」と表現される状態ではない、怒っていない、のだから、怒りではないとみなせます。「怒った」と表現される状態に、わずかでも一瞬でもなれば、その場合はA.です。怒りの前段階のざわめきのような、何らかの感情はあるかもしれませんが、その感情は怒りではないのですから、やはり怒っているとはみなせません。しかし、このように考えることのできるのは自分の怒りの場合であって、他人から見た場合は、自分の怒りの場合よりも、怒りの判定に、状況がより重要な役割を果たすのではないか、と思われます。表出からは怒りの判定はできないが、怒っていると考えざるを得ない、怒っていると想像できる、という状況があるのではないでしょうか。(このような状況に似た状況として、自分は怒っていないと感じているが、他人は怒っていると判断する、というものがあるのではないか。)ただ、これは蓋然的な状況であって、怒っているかどうかを確実に決めるには、後の判断(証拠)を待たなければなりません。この場合はまだ、あとで「あの時は怒っていなかったんだ」「やっぱり怒っていたんだ」と判断できる証拠が手に入る余地が残されています。その場合の怒りの証拠となるものは、総合的な状況証拠となるでしょうが。


自分の内的怒り感情を対象化しそれに対し表出するかどうかを考えている状態、は、もう既に怒りが表出されている状態なのか、怒りを抑えているから表出していない状態なのか。このような状況にある程度の時間留まり続けることができる場合は、せっぱつまった怒りの状況からは抜け出しているような気もします。怒りは常に切羽詰まった、突発的なものではないでしょうか。


他人は自分(「私」)を怒っていると判断しているが、自分(「私」)は、自分を怒っているとは感じていない、という場合がありますが(という場合を考えることが可能ですが)、それは、現在の自分の身体的表出は、怒りの表出とたまたま同じ身体的物理的表出だが、自分の内的感情は怒っていない、という場合ではないか。この場合、偶然怒りと同じような表出をしていたとはみなされず、確かに怒っているとみなされる。(「何故かあいつはぜんぜん怒ってないのに怒っているようなそぶりをいつも見せるよな」と言われる人も存在は可能だとは思う。)ある特殊な状況においては、感情的反応や身体的表出が方向付けされ限られてくる。その場合、内的感情は怒っていなくても、そのときに取りうる感情の幅や身体的表出の幅が掛け合わされると、怒りと似た表出になってしまう傾向がある、ということなのか。ある種の戸惑いは、怒り表出(怒りを抑えているという表出)と似ているのだろうか。