日記

内o田けんじ『運o命じゃない人』(2004)
内o田けんじ『アフoタースクール』(2007)坐 1000円
おもしろくなりそうな要素があるのに、あまりおもしろさを感じなかったのは何故だろうか。たとえば「運命」で、実は○○が最初に○○に居たことが明らかになるとき、「おもしろい!」と感じそうなのに、感じられず、あぁそういう映画なんね、と思えた。何故か。結局この映画は、おもしろい話を語るアイデアを実現したものだから、ということになるだろうか。おもしろいアイデアを実現したらおもしろいのだからそれでいいはずだ。だからこれでは説明できていない。2作とも全体的にせわしなかった*1。おもしろい話を説明するのに精一杯でそれ以外の要素が無い、映画内のどんな要素もおもしろい話を語るための要素として無駄なく配置されている、ことがおもしろくない理由か? しかし、おもしろい話が説明できていればせわしなかろうがそれで十分おもしろいはずだ。無駄なく完璧ならおもしろくはなってもつまらなくはならないはずだ。おもしろくなかったということは、おもしろい話を説明できていなかった、ということか。「運命」に比べて「スクール」には少し引っ掛かりがあって、それは冒頭のシーンの妊婦さんのおなかが重い感じや、先生の妹のふくよかさなど、印象に残る場面がいくつかあるからで、そういうシーンは、「運命」なら、深夜、初めて会った女性と一緒に部屋に向かうとき自転車を押して坂を下っている場面で風が吹いて木が揺れているところ、ぐらいしか思い出せない。映画なのだから、そういうところだけが気になるのも目標一直線のようで恥ずかしいのですが、それが原因なのか? こういうイメージビデオ的要素(を私は求めているのではない、と思いたいですが……)が無く、話を語るだけでめいっぱいの映画でもおもしろい映画はたくさんあったと思う。やはりおもしろい話は語れていると判断したことが間違いなのだろうか。アイデア、話の構造が先にあって、それを実現させるためだけに映画が進んでいるからおもしろさを感じない、ということなのか。でもアイデアや話の構造がおもしろければ、それを語ることにじっくり取り組んで、うまく語れれば、それでおもしろいはずだ。今考えれば、乱暴な話だが、『女oの中にいる他人』や『ひoき逃げ』がおもしろくなかったのも、アイデア、話の筋が先行していて、それを語ること以外の要素が映画になかったからではないかと思える。おもしろい話をうまく語ってもおもしろくならないということか。おもしろい話をうまく語るということは、おもしろい話をそのまま語るということとイコールではないということか。「運命」の冒頭で、全く明示する必要の無い心内語を女性が語り続ける(詳細は後で語られるし、心境は表情だけでじゅうぶんわかる)のも、それが何かを発生させているというよりは、女性の状況をこの映画の冒頭に固着させるためで、その置き石ぶり、内向きの方向性がおもしろくない理由ではないか。そしてその置き石は全編に渡って置かれている、ということなのではないか。あの心内語は動機の説明として必須で、あれがなければあとでこの女性が○○したこと(そしてその後○○したこと)が説明できない、ということはよくわかるが、動機の説明のために冒頭で心内語が必要だった、ということがそもそも失敗なのではないかと思う。だったらどうすればいいのか、ということになるとまったくわかりませんし、置き石くらいあってもいい、という好みもあると思う。この映画が何故おもしろく感じられなかったのかを考えたいのであって、好みの話をしているのではありませんでした。この2作を見てもどこにも行けない。映画の語る話を受け取ることで満足させようとしてくる閉塞感がある。(いや、それで満足なら満足なのだからそれでいいのだが、どう言えばいいのか、たとえば、正三角形の描き方は、という問いに、正三角形型の定規を使う、という答えで答えるような、そういうたとえで通じるのか。というよりこれは正確なたとえではないと思いますが。)エンドクレジットの後に置かれるシーンも、さらに回収感内向き感閉塞感を高めている。比べるのが間違ってると思いますが、この映画に比べて、℃-uteのコンサートを見ることの開放感や悩みのほうがずっと広くて深いと思う。これは好みの問題だ!!!


『ぐoるりのこと。』のクライマックスの嵐の夜のシーンが置き物・剥製・理念先行だったことも、『ぐoるりのこと。』のつまらなさの原因のひとつだと思う。

*1:「せわしない」……「せわしい」と同じ。「せわしい」の語幹に形容詞をつくる接尾語「ない」の付いた形(goo辞書より)