嘘・意図

七三九
「だが私は自分が嘘をついていることを知っているのではないか! どうして自分の声の調子や何かからいろいろ結論を引き出したりする必要があるのか?」――しかしこういうことは正しくない。なぜなら問題は、私が、たとえば未来に関して、[自分の声の調子その他の]観察によって見出されたさまざまなしるしから引き出しうるもろもろの結論と同じ結論を、その<知識>なるものから引き出しうるのか、その<知識>を観察によって見出されたさまざまなしるしを利用するのと同じように利用しうるのか、ということなのだから。

七四一
隠れた意図。「私は自分の隠れた意図を直接知っているが、彼の隠れた意図は推測するのだ。」しかし、彼の隠れた意図は私にとっていかなる効用、いかなる重要性があるのか。(そのことについてよく考えてみよ。)そして自分の隠れた意図についての<知識>が私に対してもつ意味は、彼の隠れた意図の推測が彼に対してもつ意味と現実に同じ[―つまり無意味―]なのである。

七四四
「自分が何を信じているのか、私はどのみち知っているのに、一体何のために、自分の言った言葉から自分の行動を推測したりしなければならないのか」では、自分が何を信じているのか私は知っているということは、どのようにして明らかになるのか。それはまさに、私が自分の言った言葉から自分の行動を推測しないということによって明らかになるのではないか。事実はそういうことなのだ。

七一二
しかし自分が怒っている場合には、自分の振舞いから自分が怒っていることを知る必要のないことを私は知っているではないか。――しかし私は自分がどのような行動をしそうかを自分の怒りから推理するであろうか? 思うにこのことは次のように言いかえることもできるであろう。自分の行動に対して私のとる態度は、観察の態度ではない、と。

七三六
知識が表現される場合でも、だからといってそれが言葉に翻訳されるわけではない。言葉は、言葉以前にある何か別のものの翻訳ではない。(『断片』191)

七四五
どうして私は自分の声の調子から、私が自分の言っていることを本当に信じてはいないのだと推理しないのか。――あるいはそこから人が推理するようなことをすべてどうして推理しないのか。――これに対して人が「なぜなら私は自分の確信を直接知っているからだ」と答えるとすれば――この場合問題は「そのことはどのようにしてわかるのか」ということである。ここで「[自分の確信については]それが何であるかを私が疑わないことからわかるのだ」と私は言うべきであろうか。

七四九
「私は怒り狂っているように見える。乱暴をしなければいいのだが」とはわれわれは言わない。しかし、「どうしてそうなるのか」ということは問題ではない。

七五二
彼を観察することによって「彼がこれからすることは多分……」と私は言う。では自分を観察して「私がこれからすることは多分……」と言うこともあるだろうか?

七七四
ある人が見たところ念入りに針に糸を通しながら、その動作は自分の意志によらずにしているのだとわれわれに言うとしよう。この人はこの発言をいかにして正当化しうるであろうか。

七八七
次のような発言を考慮せよ。――「私の信じていることがつねに偽であるということは真ではない。たとえば今雨が降っている。そして私はそのことを信じている。」
こうした人について次のように言うことができよう。彼は二人の人間であるかのように語っている、と。

七七九
君は自分が嘘をついていること知っている。自分が嘘をついている場合、君はそのことを知っている。ある内面の声、ある感覚が私にそのことを告げるのか? この感覚が私を欺くことはありえないのか?
ある声がいつも私にそのことを告げるのか? ではその声はいつ発せられるのか。嘘をついている間ずっとなのか? ――またその声が信用できるということを私はいかにして知るのか。



七八〇
嘘は特殊な状況を背景としてもつ。まず何よりもそこには動機がある。つまりある誘因が。



七八一
嘘をついているという意識は、意図の意識という範疇に属する。

七八八
どうして私は、彼の意図に関して疑いを持つのに、自分の意図に関しては疑いを持たないのか。いかなる意味で私は自分の意図を疑いの余地なく知っているといえるのか。私が自分の意図を知っていることの効用は何か。いいかえれば意図の表明にはどんな効用もしくは機能があるのか。つまりいかなるときにそれが意図の表明であるといえるのか。それはむろん、その発言に引き続いて行為がなされるとき、つまりその発言が一種の予言になっているときだろう。他人が私の行動を観察した結果としてするのと同じ予言を、私はそうした観察をすることなしにするのである。

八一〇
何らかの観察にもとづいて推論することなしに、自分はそれを感じていると彼が主張し、私もそう主張する。――そういったものは、他人の振舞いの観察や他人の信念の表明からわれわれが推定するものと同じものだろうか。(『断片』574)



八一一
彼は彼自身が意図するとおりに行動するだろうと私は推理する。――このように言うことはできるだろうか?(『断片』575)