自分の考え

五六四
私が思考しているかどうか彼には知ることができないが、私はそれを知っている。何を私は知っているのか? 私が思考することだということなのか。ではそのことを知るために私は自分が今していることをいかなるものと比較するのか。また私がそれに関して誤りを犯すことはありえないのか。結局最後に残るのは、自分は今している通りのことをしている、そのことを私は知っている、ということにすぎない。



五六五
しかし、「彼は私が何を考えていたか知らない。なぜなら私はそれを彼に言わなかったからだ」と言うことは意味をもつではないか!
私がある考えを独り言として口に出して言うけれども、誰も私の言うことを聞いていなかった場合でも、その考えは<私的>なのであろうか。
「私の考えを直接知っているのは、ただ私だけなのだ。」しかし、それはほぼ「私が望むならば私はそれを記述しうる」ということを意味している。



五六六
「私の考えを直接知っているのは、私だけなのだ」――君はそのことをどうして知っているのか。経験が君にそのことを教えたわけではない。――君はそう言うことによって何をわれわれに知らせているのか。――君は自分の言いたいことを間違った言葉で表現しているに違いない。
「とんでもない! それなら私は今あることを考えているから、それが何だか言ってみたまえ!」では君が最初に言ったことはやはり経験命題だったのか? 違う。なぜなら君が何を考えているのか私に言えたとしても、私はただそれを推測したにすぎないからだ。私が正しく推測したかどうかはどのようにして決定されるのか。君の言葉と特定の状況とによってではないか。つまり私はこの言語ゲ―ムを、決定(検証)の手段が違うように見える他の言語ゲ―ムと比較しているのである。

五六八
だが考えの文法的<私秘性>と、一般に他人がそれを口に出すまでは他人の考えは推測できないという事実との間にはある種の関連があるのではないか。確かに誰かが私に、「君が今何を考えたか(あるいは「君が今何のことを考えたか」)私にはわかる」と言い、しかも彼が私の考えを正しく推測したと私も認めざるをえないような場合がある。この意味では考えの推測というものは確かに存在する。しかし実際にはこうしたことはきわめて稀にしか起こらない。私はよく授業中に何分間も口をきかずに座っていることがある。その間考えが私の頭を駆けめぐっている。しかしおそらく私の聴衆のうち誰も私がひそかに考えていたことを推測しえないだろう。しかし誰かがそれを推測し、あたかも私がそれを口にしたかのように記録をとるということもありえないというわけではない。そして彼が私に自分の書いたものを見せたとすれば、私は「そうそう、私は全くこの通りのことを考えていたのだ」と言わざるをえないであろう。――そして、ここではたとえば私自身も誤りを犯しているのではないか。私は本当にそのようなことを考えていたのか、それとも彼の記録に影響されて、自分はまさにそのことを考えていたのだと固く信じ込んでいるにすぎないのか。といった問いは決定不可能である。
そしてこの「決定不可能」という言葉は、この言語ゲ―ムの記述の一部をなしている。



五六九
では次のようなこともまた考えられるのではないか。私が誰かに「君は今……を考えた」と言う。――彼はそれを否定する。しかし私は自分の主張に固執する。そして彼は遂に「君の言う通りだと思う。私はきっとそういうことを考えていたのだろう。私の記憶が思い違いをさせたのだろう。」と言う、といったことも。
では今度はそれが全く当たり前の出来事であったと考えてみよ!



五七〇
「思考と感情とは私的なものである」ということは、「偽装というものが存在する」ということ、あるいは、「人は自分の思考や感情を隠すことが、いやそれどころか嘘をついて偽装することもできる」ということとほぼ同じ意味を持つ。そして問題は、この「存在する」とか「人は……できる」とかいう言葉が何を意味するのかということである。