数を数える

三〇九
われわれは数字を、たとえば一から一〇〇まで写し、次のように推理し、考える
こう言ってみたらどうだろう。いまわたくしが一から一〇〇まで数字を写すとして――それを数えあげれば、正しい数字の系列がえられるだろう、とどうしてわたくしは知るのか。またここにおいて、何が何をチェックするのか。またわたくしは、ここで重要な経験的事実をどのように記述したらよいのか。経験は、わたくしが常に同じような仕方で数えていると教える、と言えばよいのか。あるいは、どの数字も書き落とされていないと教える、またわたくしが眺めていないときでも、数字は同じ状態で紙上に留まっていると教える、と言えばよいのか。あるいは、経験はこれらすべての事実を教える、と言えばよいのか、あるいはまた、われわれは決して困ったことにはならない、とだけ言えばよいのか。あるいは、大抵の場合、万事はうまくいくようにみえる、と言えばよいのか。
われわれは現にただこのように考え、このように行動し、それについて、このように語っているだけである。


三一〇
人びとが(たとえば十進法について)数を数えるすべをどうやって学ぶか、をあなたが記述しなければならないとせよ。あなたは、教師が何を語り、何を行うか、また生徒がそれに対してどう反応するか、を記述する。教師が言ったり、行ったりすることの内には、たとえば生徒にある系列を続けるよう励ますための言葉や身振りが含まれるだろう、また、「彼はもう数えることができる」といった言葉もあるだろう。さて、教授と学習の過程についてわたくしが与える記述は、その教師の言葉の他に、生徒はもう数えることができる、とか、生徒は今数字の体系を理解した、といったわたくし自身の判断も含むべきだろうか。もしわたくしがそのような判断をその記述の内に取り入れないとすれば――それは不完全なものになるのか。あるいは、取り入れるならば、わたくしは単なる記述の限界を超えていることになるのか。――わたくしは、「それが生じたもののすべてである」という理由によって、その判断を差し控えることができるだろうか。

三一九
わたくしは、たとえば、そのような授業を発声映画にとることができる。教師は時々「それでよろしい」と言う。もし生徒が彼に「なぜですか」と尋ねるならば――彼は何も答えないだろう。少なくとも、内容のある答は与えないだろう。また、「なぜなら、われわれはみんなそうするのだから」とも答えないだろう。それは理由にはならないからである。


つまり、教師は何も答えなかったりしない、だろう。その生徒が「こうかな? こうですか?」と、とにかく何かをやり始めるようにさせるために、全力を注ぐだろう。