自然現象と行動基準・価値判断の関係について考えない3

たとえば、私(たち)は、たとえどのような現象を確認したとしても「幽霊を見た」(水が大切なことを教えてくれた)とは考えず、幽霊が存在するかどうか(水が人間にとって重要なことを教えてくれるかどうか)を、実験によって確認するのは、根本的に誤っている、と考える。
メジナ狭い水槽で飼うといじめが起きる、とか、女性の数学的能力は男性より劣っているかどうか、といった問題も、この種の誤りと同じ種類の根本的誤りではないか、と思えそうなのだが、果たしてそうなのか、という問題を考えたい。誤り、というより、狙いとやっていることがずれている、もしくは、そのやり方では目的を達成しない、と言うべきか。
いや、そうではなく、幽霊が存在するかどうかは、実験によって確認することが可能であり、どんな事実を観測したとしても幽霊が存在するとは認めない、という態度は、科学的態度ではない、狂信的であり科学の名に値しない、良い立場ではない、とする考え方もあるだろう。そのとき、幽霊が存在するかどうかを確かめることが可能とされる実験、を、幽霊の存在を支持する立場の人間が有用な実験だと認めるだろうか。そのような実験の仕方では、いくらやっても幽霊は出てこない、と考えるのではないか。あるいは、そのような実験は、ほとんど幽霊主義者と同じ方向に進んでしまっているのではないか。……と今の時点で考えるのは少し進みすぎているかもしれない。
様々な実験を行い、“実際に”、“女性”の、“数学的能力”が、“男性に劣る”、ということが“確かめられた”場合、女性であるという理由で高い数学的能力を求められる地位に就くことができなくなる、ようなことが起きるだろうか。起きるかもしれないし起きないかもしれない。まあその程度の話かもしれない。その程度かもしれないが、“現状では”起きない可能性が高いように思われる。実際にそのような実験結果は今回得られなかった。または、得られたとしても、そのような実験結果が広く伝えられるような文脈は現状ではあまり想像できない。ある種の思想(現在の大勢とは異なる思想)を持った団体が、そのようなことを繰り返し唱えていそうなイメージはある(google:仏教 女性差別)。つまり問題となっているのは、女性の数学的能力ではないのではないか。もしくは、あらゆる実験結果が女性の数学的能力の男性に対する低さを示したとしても、それは、極地での犬の有用性とトナカイの有用性の差のようには決定的事実として扱われない、という、事実以前の基準(この基準は、事実を含む様々な要因による現状の諸条件から成る)こそが問題なのではないか。
それを考えずに、「やっぱり能力に差はないんだ」「やっぱりメジナが教えてくれるように同じように広い場所で過ごすべきなんだ」「こうすれば仕事ができるようになるんだ」「人間が幸福になるにはむしろ仕事を減らすほうがいいんだ」と考えてしまっては……、というようなことを考えていたのではなかったかもしれない。あらゆる観測結果が特定の方針を指し示したとしても、つまり、水が大切なことを教えてくれることが確定されたとしても、「それでも私はそれを大切なことだとは考えない」と思うことが可能だ、という問題ではないか。