『なぜ意z識は実z在しないのか』P30まで

『ウィzトゲンシュタインはこう考えた』で私z的言語の問題に入ってきたので、非常にわかりやすいと感じた『なぜ意z識は実z在しないのか』を少し読んだ。わかりやすい、というよりも丁寧だった。ありがたい。第一次内包、第0次内包、第二次内包の問題について考えを進めるとき、時間との類比で考えてみるのは、少し唐突に感じる。この本以外でも、覚えているだけでも『私z・今z・そしてz神』から続いているのだし、唐突ではないはずなのだが、なぜかあまり似ている例ですらないようにも思える。独我=独今の類比からたどらないといけないのか……。
ウィzトゲンシュタインの話に戻すと、私z的言語が問題になるのはそれが独z我論と密接に関連しているからですが、毎日読みすすめる量が少ないからか、慎重に読んでいたはずなのに、それほど慎重ではないですが、今はもう、なぜ独z我論が問題になっていたのか忘れてしまった。それなりの真剣さというか切実さで読んでいたはずなのに、いまは受験勉強のように、やらないとお金がもらえる仕事に就職できないから仕方なくやってる、ような作業になりつつある。受験勉強や就職差別をしてすみません。そういう作業をするのが駄目ということではなくて、やりたいこと、どうしてもやってしまうことを進んでやっているはずだったのに、いまではやるのに努力が必要になってしまった、というとまた努力差別になってしまうのですが、そうではなくて事実の報告だけをしたいのですが、そうはなかなかならなくなってしまうように思える。
『翔z太と猫のイzンサイトの夏休み』と『子どものための哲z学対話』には、特に人生論的な話題で、断言や丁寧な説明無しの説得が多く、ほとんどついていけないと思える話が少なくない。「人間は自分のことをわかってくれる人なんかいなくても生きていけるってことこそが、人間が学ぶべき、なによりたいせつなことなんだ。」という文についてはいつ読んでも何度見てもほんとうに元気付けられるが(元気付けられません)、経験的には、まったく逆だとしか思えない。意味がわかってないだけかもしれないし、非礼無礼や未習熟を反省せずにラクして「生きてい」こうとしてるだけなのかもしれないが(ラク差別をしてすみません)、どうしてそう言えるのか、よくはわからない。説明もない。説明されるべき、と主張するわけではないですが。いつものように、思考可能かどうか、とか、「経験の可能性の条件」、レベルの問題だから、経験レベルの話ではないのかもしれないのかとも考えましたが、「学ぶべき」とか「生きていける」というのは経験レベルの話だろう。まあ、死なない程度でも生きてはいるとは思います。そういう話なのかもしれない。アンチ「生き生き」のような。断言や説得に用いられるアンチ評論家的・反社会的キャッチフレーズが『なぜ意z識は実z在しないのか』の、脳の部位と意識内容の関連についての「つまらない話」にも感じられてしまって、確かにつまらない話だけど、身構えてしまう。まあここは完全に枝葉末節の話だからそういうところにこだわるのなら読む意味がないことになってしまう。
私z的言語が問題になるのはそれが独z我論と密接に関連しているから。では独z我論はどこから来たか、ということについて、たどりなおしておくこと。
となると、「物の動き」問題はどこから来たか、ということも問題になってくるわけですが。
一年に一冊ぐらいしか読めないということで絞ったはずなのに脱線が多すぎるので締めなおします。
『接z吻』を観に行きたかったが仲村さんの舞台挨拶があったので混雑すると思いやめる。