理論、実践

http://d.hatena.ne.jp/kuriggen/20050921

表面的な非暴力主義(ガンジー主義の標榜)というのは、別の形で他者を抑圧する方法論、別の形での経済的封圧として流通過程で排除させるという工作論に、戦略的に置き換えられることになる。

『国家論』『神学・政治論』は「机上」のものかもしれないけど、マキャベリ的(現実的、権謀術数的?)ではある、と言えそうな感じはするのですが、どうなんだろう……。(私はスピノザマキャベリも全く知らない(わかっていない)のだから、ぼんやり疑問を持ってもしかたないわけですが……。)ヘーゲルスピノザ批判もあるということなので、そのあたり、気をつけていこう……。
google:ヘーゲル スピノザ
http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card66486.html

 スピノザは主著『エチカ』を、何の断りもなく「定義」から始め、そこで「自己原因」なるものや、「実体」「属性」「様態」、そればかりか「神」にまで定義を与えている。まるで、何もかもすべて分かってしまっているかのようだ。では、スピノザ自身は一体どうやってそうした「絶対的な知識」に至ったというのか。
 コジェーブはヘーゲルのこうしたスピノザ批判を敷延して言う。「『エチカ』のこの絶対知を実現するために時間は必要とされておらず、『エチカ』は「一瞬のうちに」思惟され、書かれ、読まれねばならないのだ。これが『エチカ』の非合理である所以である」。
 スピノザには何が足りないか。即ち「感覚的知識から本当の知識にまで生成し、学問の各段階を生み出す」ような通路が足りないのだ。だが、「そこに至るには、意識は苦労して長い道を通り抜けなければならない」(ヘーゲル)。
そうした意識=精神の苦難の道の道しるべを描くのが『精神現象学』である。
スピノザにはこの『精神の現象の学』、別名『意識の経験の学』が欠けているのだ。