「意志と理性の四百年戦争」

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050722#p2

 神の手による奇蹟の顕現は、神の実在(それがどのような形のものであれ)を信じる人々にとっては、自己原因としての神の創造の手が、自然の因果連関を超越して現実の事象世界に働きかけたことの証左となる。このような奇蹟を世界の説明原理に加えれば、全体像としては「奇蹟のある世界観」が出来上がる。

 この奇蹟を「実践的理性」や「自由意志」に置き換えれば、ほぼそのままルネサンス以降のヨーロッパにおける人間“信仰”が出来上がると言っていいだろう。

「自然の因果連関」 × 「奇蹟(=神)」=「自由意志」=「第一原因」=自由
( 「×」は対立概念を示す )
 
局所的な奇蹟などない、すべてが必然「神の摂理は論理的・理性的思考によってのみ把捉できるという確信」「必然的法則の中に神を見出す体系」(「奇蹟」の中にではなく)
 
「自然の因果連関」=神=理性(論理)=必然 × 自由意志、奇蹟
 
カント「神」→「実践的理性」=「意志」=合理的法則性に基づく意志 × 自由意志?
 

スピノザまとめ

神=自然=必然=永遠=自由=本質=因果 × 自由、偶然、可能
                 必然 × 自由
                 必然 × 偶然、可能
                 自由 × 受動
              永遠、無限 × 限定
                 能動 × 受動
                 理性 × 感情
                 理性 × 意志=衝動=目標=良い悪い=感情
          必然性の認識=能動 × 受動
             必然性の認識 × 希望=恐怖=不確かな恐怖=悲しみ=受動
          必然性の認識=喜び × 悲しみ
          必然性の認識=自由 × 受動
        快活=全体的な活動増進 × 快楽=一部の活動増進=全体の活動低下

すべてが必然ということからは、「必然性の認識を持った理性も必然ではないか?」のような言い方は出てこない、とういことか。
上図の左側の「自由」と右側の「自由」は意味が違う、ということか。
「全部必然なんだから、自由意志は無いわけで、何をしようとしてもしょうがない」ではなくて、「うまく生きよう(喜びが増えるように)」というのは理性であって感情ではない、ということか。
もちろんいまのところスピノザには、いやな道徳くささや宗教くささは全く感じない。
神や必然が第一にあるというよりは、喜び=絶対善、悲しみ=絶対悪、という感じ。憂鬱や悲しみや毒舌をありがたがるような状況に対する否定。