「原因の概念」「継起と因果関係の区別」「因果関係の概念は、引き起こす、という、「力」の概念を含んでいる。」

http://d.hatena.ne.jp/jouno/20050707/1120721492

原因の概念。継起と因果関係の区別は明確なようでいて考えるほど不明確になる。しかし、ある条件ではこの二つの区別は比較的はっきりする。反復する事象について、反復を通じて同一な要素について、一般的に述べる場合。この場合、独立変数と従属変数という関係が、擬似的に、ほぼ因果関係と類比的に語れる。しかし、因果関係の概念は、操作的には、独立変数と従属変数の間の関係として擬似的に定義可能であるようにも見えるけれども、因果関係の概念は、引き起こす、という、「力」の概念を含んでいる。

力とは観察可能な何かなのか。

力は度合いの変化によって定義されるメタ概念である。だから、そこから翻って、それが、実体的基礎を持つかどうかという問いは、そもそも有意味な問いなのか。度合いの変化は力の効果なのか、力の定義なのか。この二つを区別する意味はあるのか。

(このへんたしかデカルトとかスピノザとか。加速度。変化の変化。)

自然現象は関係要素を全列挙できないことに特徴がある。しかしこれは認識の限界か、現象の側の問題か。量的な問題か、質的な問題か。

原因の概念のわからなさと力の概念のわからなさは似ている。物事はなぜ起きるのか。先行の物事が「引き起こす」からである、と答える。この答え方は正しいのか。また、そもそも、正しいか以前に、この答え方で答えになっているのか。物事は単にそこにあるのである。何故はない。物事の間の「整合性」だけがある。という答え方もある。その場合、神学的な言い方をすれば、神は、すべての時間のすべての事象を一挙に、それぞれ個別に、しかし整合性は保って創造した、ということになる。この場合、「力」は、人間知性の見出すフィクションにすぎない。

力は実在するのか。

しかし翻ってそもそも力の概念を意志の概念と無関係に討究できるのか。

力とは方向を持つ。方向とは意志の向かうところである。

転載申し訳ありません。
とりあえず私もメモ。
エチカ第一部では、原因の観念は結果の観念を100%含む(「観念」などの使い方は超適当)、必然的に結果は起こる、のようなことが。起こるというか、そういうのを含めて本質は永遠、というような。個物の場合は違うのか。実体(=唯一=神=永遠)とそれが変状したもの、永遠性を持つものとそうでないもの、の差が微妙だった。すべては神の中にあるのだけどすべてが永遠というわけではなくてそれは当たり前なのだけれどそのあたり。
第二部最初のほうに、実体は運動しない、ゆっくり動くとか速く動くとかしないから、のようなのがあったような……。ちゃんとメモ取らないとすぐ忘れる。
物の本質には存在の維持は含まれていないから、瞬間ごとに神が維持しなければならない。エチカ第二部、『デカルトの哲学原理』にみられる運動量保存の法則のようなのは、どのように出てきたのか見ておく。