怒りの分類2
他人に見られているかどうか | 表に表れるかどうか | 意識 | 他人から見て | 自分にとって |
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誰にも見られていない | 表に表れず心の中だけ | 無理せず抑えることができた | 怒っている | |
努力して抑えた | 怒っている | |||
表情や行動として表れている | 意図せず表れてしまった | 怒っている | ||
多少意図して表した | 怒っている | |||
他人に見られている | 表に表れず心の中だけ | 無理せず抑えることができた | 怒っていない | 怒っている |
努力して抑えた | 怒っていない | 怒っている | ||
表情や行動として表れている | 意図せず表れてしまった | 怒っている | 怒っていない | |
怒っている | ||||
多少意図して表した | 怒っている | 怒っている |
ポイントは、他人に見られているとき、他人は怒っていると判断しても、自分では自分は怒っていないと感じている、というときがあるという事実です。
他人に見られていないとき、自分では怒っていないつもりでも、自分の表情や行動から、自分は怒っている、と判断できるときがあるでしょうか。というより、そのようなことは可能でしょうか?
もしくは、他人に見られているとき、他人は自分を怒っていると判断しても、自分では自分は怒っていないと感じている、という状態は、自分は自分の怒りを認めたくないだけで、「実は」怒っている、のでしょうか?
この「実は」を認める(否定する)ためには、怒りの基準をどこに置けばいいでしょうか。他人から見える表出か、それとも、自分で意識する自分の感情か、またはもっと別の何かか。